明治時代の小学校「明月清風校」の開校と変遷(中編)

私たち古橋家は、現在の豊田市立稲武小学校の始まりにあたる「明月清風校(めいげつせいふうこう)」の設立にも深く関わりました。ときは文明開化華やかなりし頃の明治時代。今回の中編では、同校の教育面や運営面における特徴を解説していきます。

目次

額田県の規範に基づいた学科課程

文明開化によって日本の西洋化と近代化が進む中、明治5年(1872)8月15日に額田県武節町村(現在の愛知県豊田市武節町)で開校を果たした「明月清風校」。開校当時のものとされる「稲橋義校便覧表」によると、児童生徒数は遠隔地からの寄宿生も含めて約100名にのぼりました。ただし、その中には15歳以上の年長者が約37名も。なにしろ今から150年以上も昔のことですから、このほかにも現代の私たちがイメージする“小学校”とはさまざまな点で違いがありました。

明治6年「古橋義校便覧表」(古橋家文書:近代0-35)

まずは当時の学科課程から見ていきましょう。参照するのは「稲橋擬庠幼学課表」という開校当時の資料で、これは額田県が定めた「額田県小学課業表」を規範にして作成されたものだと考えられています。後者の小学課業表で標準的な学科課程として示されているのは、「句読」「暗誦」「習字」「算術」のおもに4科目。これは前者の「明月清風校」における幼学課表でも同様でした(※注)。

(※注)ただし、「明月清風校」に「算術」の教員である伊藤方正が着任するのは開校から約半年後の明治6年(1873)2月。そのため、開校からしばらくは「算術」の授業を行っていなかったようです。

明治5年「額田県小学課業表」(古橋家文書:近代0-32)
明治5年「稲橋擬庠幼学課表」(古橋家文書:近代0-31)

和洋漢の3学に加えて農業に関する学科も

前編でもお伝えしましたが、「明月清風校」の校長を務めることになったのは、平田流国学の門下として日本固有の精神や文化などを研究していた国学者、佐藤清臣。そのため、佐藤が担当した「句読」の授業では、平安時代の法典「延喜式」など、かなり高度な国学(皇学)の古典が教材として使用されました。

一方では、中国の「論語」や「孟子」などを始めとする漢学の授業も。さらに福澤諭吉による世界地理の入門書「世界国尽」や諸外国史の「万国史略」といった教材を通して欧米の歴史や文化に触れられる授業もあり、国学(皇学)を中心としながらも和洋漢の3学が満遍なく取り入れられていました。

そして最大の特徴には、上記の4科目に加えて「農学物産」という科目を設けていたことが挙げられるでしょう。これは文字どおり、農業などに関する学科。江戸時代に出版された日本最古の農書「農業全書」や、薬用の植物や動物、鉱物を研究する本草学などを通して、当時の農学としては最高水準の授業を行っていたようです。

宮崎安貞著・貝原楽軒補『農業全書』(元禄10年(1697)版、全11巻)
(古橋懐古館所蔵:和書944)

地域産業に合わせた人材育成に注力

この「農学物産」は、周辺地域にあるほかの「郷校」や「義校」などには見られない学科です。ではなぜ、「明月清風校」だけにそのような独自の学科が設置されることになったのか? その背景には、同校の開校に尽力した古橋家6代源六郎暉皃(てるのり)とその息子である7代源六郎義真(よしざね)の考えや思いが強く影響していたと考えられます。

この古橋家の親子2人は、以前から郷土である稲橋村の農事改良や農村振興に努めるとともに、平田流国学からの学びなどを通して、生産者の立場に基づいた農本主義的な考え方を大切にしてきました。そのため、「句読」や「算術」といった学科で知識水準の向上を図るとともに、地域の主産業に合わせた学科も加えて人心と技能の両面からの人材育成を図ることで、地域のさらなる振興を企図したのでしょう。

いずれにしましても、当時の「郷校」や「義校」は江戸時代の寺小屋や私塾などを母体としたケースが多く、学科課程に開校以前の教育内容や伝統などを踏襲しているところはほかにも少なくありませんでした。しかし、そうしたある意味での自由さは、過渡期ならではのことだったのでしょう。その後、このような教育内容の不統一は、よくも悪くも少しずつ解消されていくことになります。

懸念点であった学校運営費は古橋家が負担

一方で学校を運営していくには、校舎の維持費や教員の人件費、備品代など、さまざまな経費がかかります。当時の「郷校」や「義校」では、そうした費用をそれぞれの村で捻出しなければならず、教員の給料が払えない学校もあったそうです。さらにそれぞれの家庭では、月謝の負担も大きかったに違いありません。開校から3ヶ月後の明治5年11月には、額田県から「各校で広く有志を募ってほしい」といった内容の通達もあり、県としても各校の運営費を憂慮していたことがわかります。

そんな中で「明月清風校」は、いわば例外的な立場にありました。同校の設立にあたって6代源六郎暉皃が額田県に提出した「郷学校取立願書」によると、学校の運営費は「無尽講」の運用によって10年間で1,000円(当時の価額)を積み立て、その運営費が調達できるようになるまでは古橋家の私費を投じていくことなどが記されています。この「無尽講」とは、江戸から明治にかけて盛んだった金融の一形態。つまり同校は、古橋家の寄付によってすべての経費をまかなうことができていました。

明治6年 明月清風校頼母子金関係文書

その後も継続的な支援で学校運営をサポート

こうした古橋家の姿勢からは、この「明月清風校」にかける思いや責任感の深さが感じられます。また、学校を円滑に運営していくためにも、地域の人たちの負担を少しでも減らし、学校への不満が生じることを防いでいきたいという考えもあったのでしょう。その後、官有林の払い下げに伴う支出増によって当初の計画は変更を余儀なくされますが、古橋家は新たに10年間で1,500円を積み立てる「無尽講」を計画しています。

さらに費用面を見ていくと、明治6年(1873)6月に公立小学校の「第9中学区第43番小学明月清風校」となった際にも、古橋家が学校費資金としてさらに1,000円を寄付。さらに明治6年と翌7年(1874)に生じた学校費の不足分や、明治8年(1875)の校舎修繕費なども古橋家が率先して負担しました。このような多大な貢献に対して、地域の中から「いっそのこと校名を『古橋学校』にしてはどうか?」などという声が高まり、古橋家がそれを固辞するといった一幕もあったそうです。

明治7年3月30日「学校名称換願」(第九中学区取締・鈴木利十郎より愛知県令・鷲尾隆聚宛)
「右村古橋源六郎儀金千円同校永続之為寄付仕候儀、敦厚之志感心之事ニ御座候間、己来古橋学校ト改称候様更ニ御指令奉願候(前後略)」とあり
(古橋家文書:近代0-114)
明治7年5月「学校名称換御猶予願」(古橋源六郎より愛知県令宛)
「(前略)右資金ニテハ未永続目途無之ニ付、当今改称ニテハ若又名聞ニ設立抔ト狐疑ヲ生シ却テ瓦解仕候間、今一層尽力永久ノ基礎相立建言仕候迄ハ是迄校名ニ差置候様致度此段奉願候也」とあり 
(古橋家文書:近代0-118)

教育面や運営面における「明月清風校」の特徴には、以上のようなことが挙げられます。しかしこの時期は、時代の変化のスピードが今よりも早かったのでしょう。この後も同校は、短期間のあいだにさまざまな変化を重ねていくことになります(後編に続きます)。

文:藤原均(フリーライター)

【参考文献】

  • 結城陸郎「愛知県における郷(義)校の発達とその意義 -「教育の近代化過程研究」の一環として-」『名古屋大学教育学部紀要』18号 名古屋大学教育学部 1971年
  • 結城陸郎「郷校明月清風校と古橋源六郎 -「教育の近代化過程研究」の一環として(承前)-」『名古屋大学教育学部紀要』19号 名古屋大学教育学部 1973年
  • 木槻哲夫「篤農と小学校 -明月清風校-」『豪農古橋家の研究』 1979年 雄山閣出版株式会社
  • 芳賀登『維新の精神 豪農古橋暉皃の生涯』 1993年 雄山閣出版株式会社
  • 稲武町教育委員会編『稲武町史 通史編』 2000年 稲武町
  • 高木俊輔『明治維新と豪農 古橋の生涯』 2011年 吉川弘文館
  • 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 通史編 近代』 2021年 愛知県豊田市
  • 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 別編 総集編』 2023年 愛知県豊田市

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