明治時代の小学校「明月清風校」の開校と変遷(前編)
私たち古橋家は、現在の豊田市立稲武小学校の始まりにあたる「明月清風校(めいげつせいふうこう)」の設立にも深く関わりました。ときは文明開化華やかなりし頃の明治時代。今回の前編では、教育面における当時の状況や開校に至るまでの経緯などを紹介していきます。
文明開化の時代に誕生した「明月清風校」
「明月清風校」とは、今から150年以上前の明治5年(1872)に、額田県稲橋村(現在の愛知県豊田市稲武町)に隣接する武節町村で開校した初等教育機関です。当時は「郷校」や「義校」などと称されていましたが、後にさまざまな改革や統廃合などを経て、現在の豊田市立稲武小学校へと発展していきました。
明治時代の初期といえば、文明開化が起こって私たち日本人の生活が大きく変わっていった時代です。そのような当時の空気が反映された教育内容や、その後の紆余曲折からは、稲武や日本の教育史を知るうえでも数多くの示唆が得られるに違いありません。まずは当時の状況を整理するため、明治初期の大きな流れを振り返ってみましょう。
富国強兵を進めるうえでも教育が必要だった
日本が江戸時代から明治時代へと入っていく過程では、江戸を首都の東京とする東京遷都、それまでの藩体制を廃止して府県を置く廃藩置県、さらには断髪令や廃刀令まで、数多くの大きな変革がありました。これらはいずれも、幕末から続く日本の西洋化と近代化をさらに推し進めていく富国強兵政策の一環であったといえるでしょう。
そしてなによりも、欧米の列強と同等に渡り合っていくためには、国民一人ひとりの知識水準を向上させることが急務でした。そんな中、政府は明治4年(1871)に文部省を発足。欧米を範とする教育法令の編纂に取りかかりました。
明治時代の初期における額田県の教育状況
一方で当時の教育状況は地域によってさまざま。かつて額田県が存在したエリアに限って見ると、明治元年(1868)から同4年までのあいだに、県内でおよそ18校の初等教育機関が開校したという記録が残されています。ちなみにそれ以前の教育機関といえば、多くの人が江戸時代の「寺子屋」を思い浮かべるのではないでしょうか。明治に入って新たに開校した学校の多くは、その寺子屋を転用するかたちで始まったところが多かったそうです。
ちなみに明治政府が近代の義務教育制度である「学制」を発布し、公立小学校が全国で次々と整備されていくのは明治6年(1873年)以降。それ以前に開校したこれらの学校は、いずれも村や個人などの有志によって運営されていることもあって私塾的な側面が強く、呼び名も「郷校」や「村邑小学校」「村学校」などと地域によって異なりました。
古橋家が開校に向けた取り組みを主導
では額田県の中でも、稲橋村の状況はどのようなものだったのでしょうか。手元の資料によると、江戸時代の末期には作家・島崎藤村の代表作『夜明け前』の登場人物である宮川寛斎のモデルともなった国学者、馬島靖庵(まじませいあん)による国学塾があったそうです。また、古橋家7代源六郎義真(よしざね)が幼少の頃、村内の瑞龍寺で僧について素読や論語を学んだという記録も見つかりました。しかし、それ以外には明治以前に寺子屋や私塾などがあったという記録はほとんど残っておらず、明治5年の「八大区三小区設楽郡稲橋村一覧表」には「学文所無之(これなし)」と記されています。
当時の稲橋村は、江戸時代の中期から続いていた賑わいに陰りが見えて、経済的にも行き詰まりつつあった頃。そうした状況を打破していくためにも、地域における教育の普及促進は喫緊の課題でした。そんな中、明治5年6月に県が「郷校」の設立を計画。各地に「学校幹事」を任命し、開校に向けた動きを後押しするようになりました。一説には、この地域の学校幹事には古橋家7代の義真が任命されたと伝えられています。
そこで同年7月、県からの勧誘もあり、義真と父である古橋家6代源六郎暉皃(てるのり)が、額田県庁に「郷校」の建設願いを提出。わずか数日で許可が下り、古橋家の親子2人が中心となって開校準備を進めていくことになりました。
学校所在地と教職員の人選について
しかし開校予定日は同年の8月15日。準備に残された期間はわずか1ヶ月ほどしかありませんでした。校区の対象となるのは、これまで幕府直轄領として共同体を形成してきた組合村12村です。そこでまず校舎には、稲橋村の隣にある武節町村で廃寺になっていた一円寺というお寺の建物を使用することに決定。両村の境界線にあたる名倉川の大橋のたもと付近にあり、12村のほぼ中央に位置していたことも、ここに決定した理由の一つであったと考えられます。
そして学校を運営するうえでもっとも重要なことの一つは、なんといっても教職員の選定でしょう。その人選にあたっては、地域の歴史が色濃く反映されていたものと思われます。それというのも稲橋村とその周辺は、名古屋と岐阜や長野をつなぐ中馬街道(信州飯田街道)沿いにあり、古くから信州との文化的な交流が活発な地域でした。その信州で当時多くの支持を集めていたのが、江戸から明治にかけての国学者である平田篤胤(あつたね)によって提唱された平田流国学。そのため国学者が稲橋村を来訪する機会も多く、暉皃はその平田流国学の門下の一人でもあり、長じて後には息子の義真も国学に深い興味を示しました。
そうした経緯から、校長には同じ平田流国学の門下で、暉皃と義真がその類まれな学識と人柄を高く評価した美濃国出身の国学者、佐藤清臣を抜擢。さらに御所貝津村の医師であった松井春城も招聘し、2名の優れた教員を確保するに至りました。また、学校の運営を担う「取締」には義真が就任。12村の各副戸長が「義校周旋方」として、そのサポートにあたっていくことになりました。
明治5年8月に「明月清風校」が開校
なお、開校の翌年にあたる明治6年11月に提出された「小学校建設願」には、同校を寄宿制とし、さらに19時から21時までの夜学も設けることが記されています。当時は昼間に農作業や畑仕事を手伝わなければならない子どもたちが多く、一方では東加茂郡や遠くは恵那など遠方からの入学希望もあったことから、この寄宿制と夜学の導入は一人でも多くの子どもたちに教育機会を与えるうえで欠かすことのできない制度であったと考えられます。そのため、開校2日前の8月13日には、鍋や炊事道具、火鉢、行燈、枕など、生活用品も含むさまざまな道具類が校舎内に搬入されました。
そうして明治5年8月15日、ついに「明月清風校」が開校。なお、この校名は開校日が旧暦で中秋の明月にあたること、そして校舎の近くを流れる名倉川に気持ちの良い涼風が流れることから名付けられたといわれています。
以上がこの地に「明月清風校」が開校するに至ったおおよそのあらましです。この時期は、ほかにもさまざまな地域でこうした学校の開設が相次ぎました。ではそうした中で、「郷校」と呼ばれた同校にはどのような特徴があったのでしょうか? その一つは学校の人件費や維持費など、運営経費に関することでした。次回はそのような運営面や、あとは教育面の特色などを通して、「明月清風校」がどのような学校であったのかを詳しく紹介していきます(中編に続きます)。
文:藤原均(フリーライター)
【参考文献】
- 結城陸郎「愛知県における郷(義)校の発達とその意義 -「教育の近代化過程研究」の一環として-」『名古屋大学教育学部紀要』18号 名古屋大学教育学部 1971年
- 結城陸郎「郷校明月清風校と古橋源六郎 -「教育の近代化過程研究」の一環として(承前)-」『名古屋大学教育学部紀要』19号 名古屋大学教育学部 1973年
- 木槻哲夫「篤農と小学校 -明月清風校-」『豪農古橋家の研究』 1979年 雄山閣出版株式会社
- 稲武町教育委員会編『稲武町史 通史編』 2000年 稲武町
- 高木俊輔『明治維新と豪農 古橋の生涯』 2011年 吉川弘文館
- 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 通史編 近代』 2021年 愛知県豊田市
- 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 別編 総集編』 2023年 愛知県豊田市