明治時代の小学校「明月清風校」の開校と変遷(後編)
私たち古橋家は、現在の豊田市立稲武小学校の始まりにあたる「明月清風校(めいげつせいふうこう)」の設立にも深く関わりました。ときは文明開化華やかなりし頃の明治時代。最終回となる後編では、開校とほぼ同時に定められた「学制」への対応など、わずか数年のあいだの目まぐるしい変化を中心にその後の変遷を追っていきます。
「学制」の発布を経て額田県と愛知県が合併
江戸時代から明治時代へと時代が大きく変わり、日本の西洋化と近代化が進んでいく中で、明治5年(1872)8月15日に額田県武節町村で開校した「明月清風校」。前回の中編では、運営費などを解説するために時計の針を先に進めてしまいましたので、今回はその針を戻し、あらためて開校以降の足跡を追っていきます。
まずはこの時期における国内の大きな動きを整理してみましょう。慶応4年(1868)1月に誕生した明治政府は、明治4年(1871)7月に廃藩置県を断行。同年11月、三河国のほぼ全域が額田県になりました。
一方で全国の教育行政を統括する機関として創設された文部省は、奇しくも「明月清風校」の開校とほぼ同時期の明治5年8月に、日本初の近代的学校制度を定めた「学制」を発布。同年11月には、額田県が愛知県に合併され、それまで「郷校」や「村学校」など地域によって異なっていた学校の呼び名が、適宜「義校」へと改められていくことになります。
愛知県が学区を制定し、県内を2100の小学区に分割
そして明治6年(1873)5月、「学制」発布からおよそ9ヶ月を経て、愛知県が学区の制定に着手。県内を10の中学区に分割し、さらに各中学区を210の小学区に分けたうえで、それぞれの小学区ごとに小学校を設置することになりました。
しかし、その数は単純計算で2100校。当時の愛知県内にはおよそ430校の「義校」があったといわれていますが、その5倍弱にも匹敵し、とても現実的な数字とはいえません。そこで県は、ひとまず170校の開校を計画。従来の430校と合わせて全600校体制にすることを当面の目標としました。
そんな中で「明月清風校」が所在する設楽郡は、加茂郡と八名郡とともに愛知県の第9中学区に編入。同区内に50校の小学校を設置することになり、まずは従来の「義校」を小学校に切り替えることから整備が進められていきました。
「明月清風校」から「第9中学区第43番小学明月清風校」へ
そうして明治6年11月、「明月清風校」は県に願書を提出し、「第9中学区第43番小学明月清風校」と改称。翌年の明治7年(1874)8月には、新たな門出を祝う開業式を行いました。
この「明月清風校」から「第9中学区第43番小学明月清風校」への移行は、単純な改称だけに留まらず、教育面にも大きな変化をもたらしました。「句読」「暗誦」「習字」「算術」の4学科は「義校」時代を踏襲したものの、ほかの「義校」では見られない大きな特色であった「農学物産」は廃止。さらに文部省が制定した「小学教則」に則って教科書を変更するなど、移行後は国の方針に準拠していこうとする姿勢が伺えます。なお、詳しい記録は残されていませんが、これらの改変に伴い、同校のもう一つの大きな特長であった国学(皇学)の要素も失われていったのだろうと思われます。
さらに江戸時代の寺子屋や私塾などをルーツとする「義校」は、その維持や運営を地域の有志に委ねてきましたが、「学制」発布後は地方の教育行政がその役を担っていくことになります。もっとも「明月清風校」は、前回の中編で触れたとおり、その後も資金面では古橋家の継続的な支援を必要としました。その例からもわかるとおり、この「学制」に基づく公立小学校への転換は、各地域でそれぞれの実情に合わせて少しずつ進められていったのでしょう。
分校の開設に続いて「公立稲橋小学校」と改称
なお、明治7年の開業式に出席した児童は70名前後。近隣の周辺地域では学校の開設が進んでいなかったこともあり、校区内の12村の子どもたちだけでなく、遠方からの寄宿生も少なくありませんでした。そうして開業式に先立つ同年1月に、分校として「第44番小学川手学校」を設立したのを皮切りに、翌明治8年(1875)には「第87番小学大野瀬学校」「第89番小学誠明学校」「第89番小学押山学校」の3校をそれぞれ新設。この時期における児童数の推移は詳しい資料が残っていませんが、こうした分校設立の動きからは、順調にその数を伸ばしていただろうことが伺えます。
一方で愛知県は、明治8年に小学区を改定しました。それまでは人口600人につき1学区を基準にしていましたが、新しい基準を1000人としたうえで、それぞれの地域の実態を考慮した内容に変更。それに伴い、いくつかあった分校のうちで「第87番小学大野瀬学校」と「第88番小学小田木学校」がそれぞれ独立を果たしました。そうした動きを経て、明治9年(1876年)に「第9中学区第43番小学明月清風校」を「公立稲橋小学校」と改称。当時の一般的な公立小学校としての体制が徐々に整えられていきました。
「義校」時代の「明月清風校」が果たした役割
ここまでの出来事は、明治5年の開校からわずか4年ほどのあいだに起こったことです。明治維新に始まる激動の時代であったとはいえ、あらためて順番に辿ってみると、その変化の早さには驚かざるを得ません。開校から校長を務めてきた国学者の佐藤清臣も、そうした急激な変化の連続に戸惑いを感じたうちの一人だったといわれています。
では「学制」の発布に先立って開校した「義校」時代の「明月清風校」には、果たしてどのような意味があったといえるのでしょうか? まずは就学率の観点から見ていきましょう。公立小学校に移行する直前の明治7年2月に行われた実態調査によれば、校区内の12村における就学率は58.2%。同年における県の就学率が47.02%、全国平均ではわずか32.3%に過ぎないことを踏まえると、58.2%という数字がいかに突出しているかがわかります。
就学数(男) | 就学数(女) | 不学数(男) | 不学数(女) | 就学率 | |
稲橋村 | 4 | 6 | 7 | 7 | 41.7% |
中当村 | 6 | 2 | 0 | 6 | 57.1% |
夏焼村 | 3 | 2 | 5 | 8 | 27.8% |
野入村 | 25 | 22 | 0 | 0 | 100.0% |
大野瀬村 | 34 | 7 | 10 | 21 | 56.9% |
押山村 | 17 | 9 | 2 | 3 | 83.9% |
武節町村 | 6 | 3 | 2 | 3 | 64.3% |
桑原村 | 6 | 5 | 3 | 6 | 55.0% |
御所貝津村 | 15 | 6 | 4 | 10 | 60.0% |
黒田村 | 3 | 0 | 14 | 17 | 8.8% |
小田木村 | 28 | 11 | 8 | 22 | 56.5% |
合 計 | 147 | 73 | 55 | 103 | 58.2% |
さらに「第89番小学誠明学校」「第89番小学押山学校」「第88番小学小田木学校」の3分校では、「明月清風校」の卒業生が教員を務めました。当時は教員不足が学校の開設を阻んでいるケースも少なくなかったといいますから、その後も貴重な人材を輩出し続けることで、より広範なエリアに教育を普及させる意味でも多大な貢献を果たしたといえるでしょう。
市町村合併などを経て現在の「豊田市立稲武小学校」へ
そうして「明月清風校」を前身とする「公立稲橋小学校」は、その後も順調に児童数を増やし続けました。やがて「教育に熱心な稲橋」や「学校に熱心な稲武」などと地域内外からの評価も高まり、「模範村」として全国的な注目が集まったこともあったといいます。
それから大正、昭和と時を経て、昭和15年(1940)には稲武町発足に伴って「稲武町立稲橋小学校」と改称。昭和57年(1982)に近隣の4小学校と統合して「稲武町立稲武小学校」となり、平成17年(2005)に稲武町が豊田市に編入したことで、現在の「豊田市立稲武小学校」に改称しました。
このようにして、いわば伝統的で土着的な「郷校」として始まり、近代的で西洋的な初等教育機関である小学校へと発展的解消を遂げていった「明月清風校」。昭和46年(1971)に「愛知県における郷(義)校の発達とその意義」を著した教育史学者の結城陸郎は、その中で、幕末から醸成されてきた教育への欲求と、富国強兵政策に基づく「学制」の構想が、双方から調和していったことに一定の評価を与えています。これを近年の言葉で言い換えるなら、前者が地域からのボトムアップ、後者が国からのトップダウンにあたり、「明月清風校」の歩みはその両方が見事に噛み合った好例、と表現できるのかもしれません。
文:藤原均(フリーライター)
【参考文献】
- 結城陸郎「愛知県における郷(義)校の発達とその意義 -「教育の近代化過程研究」の一環として-」『名古屋大学教育学部紀要』18号 名古屋大学教育学部 1971年
- 結城陸郎「郷校明月清風校と古橋源六郎 -「教育の近代化過程研究」の一環として(承前)-」『名古屋大学教育学部紀要』19号 名古屋大学教育学部 1973年
- 木槻哲夫「篤農と小学校 -明月清風校-」『豪農古橋家の研究』 1979年 雄山閣出版株式会社
- 芳賀登『維新の精神 豪農古橋暉皃の生涯』 1993年 雄山閣出版株式会社
- 稲武町教育委員会編『稲武町史 通史編』 2000年 稲武町
- 高木俊輔『明治維新と豪農 古橋の生涯』 2011年 吉川弘文館
- 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 通史編 近代』 2021年 愛知県豊田市
- 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 別編 総集編』 2023年 愛知県豊田市