まだ電話もメールも自動車も使えなかった大正の「大嘗祭」(後編)
大正の大嘗祭について、前編では「稲橋村武節村組合献糸会」(現在の豊田市稲武献糸会)が御料繭の調進を要請されてから、さまざまな準備を経て「謹選調製式」を終えるまでの過程を追っていきました。それに続く後編では、当時の詳しい資料に基づき、御料繭の奉送から「受授式」までの内容をご紹介していきます。
36名の奉仕者が岡崎町の三龍社に向けて出発
大正4年(1915)9月4日、1石ごとに樅(もみ)製の箱とヒノキ製の辛櫃(からびつ)に納め、覆布をかけて注連で飾り付けた合計6石の御料繭が、繒服(にぎたえ)の調進を行う額田郡岡崎町(現在の岡崎市)の「三龍社」に奉送されることになりました。
奉送の大任を担うのは、献糸会の古橋会長と役員、調進委員、組合村の村長代理、北設楽郡長、在郷軍人分会長、警察官など総勢36名の奉仕者。そのうちの24名は組合村青年会員の中から厳選された奉舁者(ほうよしゃ)で、1つの辛櫃ごとに4名が付く計算でした。
なお、平成度の「大嘗祭」では、奉送先である宮内庁までの移動に車と新幹線を利用しましたが、今回の舞台は大正時代。国内では本格的な自動車生産が始まっておらず、大正4年に開業した三河鉄道が足助町まで延長されるのも、まだ先の話です。したがって道中の移動はすべて徒歩。「三龍社」までの道のりは55kmから60kmほどでしたから、これがいかに大変なことであったのかが伺えます(※注)。
それも当日はあいにくの悪天候。前夜からの大雨は朝になっても続いていました。そんな中で9時より「発送式」を斎行。奉仕者は白装束などそれぞれの規定に基づいた服装に身を包み、御料繭に雨除けの処置を施したうえで、10時の報せを待ってから降りしきる大雨の中を出発しました。
(※注)距離数は現代の道路事情に基づいた数字です。大正時代とは異なる場合もありますので、あくまでもおおよその目安としてお考えください(以下の距離数も同様です)。
奉仕者の一行が村から約30kmの足助町に到着
この奉送は行く先々で熱烈に歓迎されました。組合村の家々には国旗がひるがえり、祭礼のときなどに使用する軒提灯を吊るす家も多かったそうです。そして沿道には老若男女が列を成し、長い人垣をつくりました。その中には「ありがたいことだ、光栄なことだ」などといって合掌礼拝を行う人や、感涙にむせぶ人も少なくなかったといいます。
奉仕者の一行がまず最初に目指したのは、稲橋村と武節村から約10kmの距離にある小田木小学校(後に閉校)でした。なお、一行の見送りは、学校の児童生徒などはそれぞれの学区の境まで。調進委員や各大字の有志などは、その小田木まで同行しました。
小田木小学校に到着したのは正午頃。一行はここで休憩し、昼食をとりました。そして多数の見送りを受けながら出発。道中にあった下小田村の神社の境内で小休憩をとった後、18時をまわってから足助町に到着しました。小田木から足助町までの距離はおよそ20km。一行はこの一日で30km前後を踏破したことになります。
2日間かけて奉送先である三龍社に到達
足助町に到着した一行は、東加茂郡長や足助町長、足助警察署長、町内の名誉職、学校職員など多数の人たちに出迎えられました。そして御料繭を足助小学校の講堂に安置。夜間の警備は、町内の郡吏や学校職員などが引き受けてくれることになりました。一行は朝から歩き詰めでしたので、この申し出は非常にありがたかったことでしょう。全員が深く感謝してから眠りについたことは想像に難くありません。
翌9月5日、一行は早朝5時30分に足助町を出発。およそ15kmの距離にある松平村に向かい、村内にあった「三龍社」の出張所で昼食をとってから、再び歩を進めました。やがて一行は岡崎町内に入り、13時30分頃には徳川家康ゆかりの地でもある伊賀八幡宮に到着。ここでも額田郡の書記、岡崎町の助役や商業会議所の頭取、町会議員、在郷軍人、青年会員など多数の人たちに歓迎されました。
そして14時30分頃、岡崎警察署の警部補や巡査など十数名に警護されながら伊賀八幡宮を出発。乙川をまたぐ殿橋を渡り、およそ1時間後には「三龍社」に到達しました。2日目の歩行距離は、ざっと見積もって合計で25kmほどだったと思われます。
受授式で御料繭を引き渡して大任を完遂
「三龍社」の門前では、同社の幹部数十名が整列して奉仕者の一行を出迎えました。そのほかには松井愛知県知事を始め、県の理事官、技師、役人、額田郡長、「三龍社」社長、代議士、岡崎町長や岡崎警察署長、商業会議所会頭などの姿も。同社の社員や技術員、工員なども含めた全員が容儀を整え、一行の到着を待ちわびていました。
そして「三龍社」が用意した式場で「受授式」が斎行されました。6つの辛櫃に納められた御料繭は、その1つずつを2名の奉舁者が担ぎ、残りの2名がこれを見守るというかたちで祭壇の傍らに安置され、奉仕者の一行は式場の北側に、松井愛知県知事以下の参列者は南側に整列。次いで浄衣と切袴、烏帽子に身を包んだ古橋会長が中央に進み出て、松井愛知県知事に調進書を手渡し、知事から「ご苦労様でした」とねぎらいの言葉をいただきました。
次に理事官が進み出て、知事の隣に控えていた「三龍社」の田口百三社長に「大嘗祭繒服御料繭をお渡しいたします」と告げると、知事の前に進み出た「三龍社」の社長が「御料繭、まさにお受けいたしました」と返答。「何分よろしくお願いいたします」という知事の言葉で「受授式」はつつがなく終了し、これをもって御料繭の調進という名誉ある大任を完遂することができました。
奉仕者一行の帰村と先人への感謝
ここから先は後日談になります。翌9月6日、奉仕者の一行は「三龍社」の製糸工場と新築されたばかりの織殿で作業を見学してから午後に出発。岡崎町内で一泊した後、翌7日の21時30分頃、沿道に集まった人たちに出迎えられながら無事に帰村しました。
そして1ヵ月ほどを経た10月11日、古橋会長は「三龍社」の社長とともに謹製された繒服を京都御所まで奉送。翌12日、松井愛知県知事を通して「大嘗祭」の事務などを司る大礼使に上納しました。
その後、この大任に関わった地域の人たちは「招魂報告祭」を斎行し、献糸会の創設に尽力した古橋家6代の源六郎暉皃(てるのり)や「三河蚕糸考」を記した国学者の羽田野敬雄(はだのたかお)などの先人に心からの感謝と敬意を捧げたといいます。
こうして当時の奮闘ぶりを詳しく知ると、現代を生きる私たちも、かつて大正時代の人たちがそうであったように、先人たちの偉業に対して畏敬の念を抱かずにはいられません。
文:藤原均(フリーライター)
【参考文献】
- 愛知県北設楽郡稲橋村武節村組合献糸会「大嘗祭繒服御料繭調進記録」(古橋家文書・近代132-1)
- 古橋茂人『古橋源六郎道紀翁小伝』 1995年 財団法人古橋会
- 古橋茂人『大嘗祭繒服調進の記』 1990年 財団法人古橋会
- 「新三河新聞」 1915年9月7日発行