稲武地域が一丸となって取り組んだ平成度の「大嘗祭」(前編)

天皇陛下が皇位継承に伴って行う一世一代の重要な儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」。そのときに供えられる絹織物の「繒服(にぎたえ)」は、古くから三河地方が調進してきました。今回は平成度の大嘗祭で豊田市稲武地区から調進された「繒服」に焦点を当て、まず前篇では三河地方における養蚕の歴史などをご紹介します。

目次

「大嘗祭」の「繒服」は古くより三河地方が調進

皆さんは宮中祭祀の一つである「新嘗祭(にいなめさい)」についてご存知でしょうか。これは天皇陛下がその年に収穫された五穀を天神地祇(てんじんちぎ)に供え、その年の収穫に感謝するとともに、来年の豊穣を願う行事。毎年11月23日に皇居の神嘉殿で執り行われるほか、同日に全国各地の神社でも実施されます。

この毎年行われる「新嘗祭」の中でも、歴代の天皇陛下が皇位を継承してから最初に行う場合を特別に「大嘗祭(だいじょうさい)」と呼び、その年は五穀だけでなく、絹織物の「繒服(にぎたえ)」と麻織物の「麁服(あらたえ)」を供えます。

これらの2種類の織物のうち、「繒服」を調進する役目を担っているのが三河地方。その歴史は古く、平安時代の延喜5年(905)より編纂が始められた法典『延喜式(えんぎしき)』にも、「繒服」は古くから三河の国より調進されたという意味の記述が残されています。

藤原忠平・松平斉恒『延喜式』(文政11年(1828)序、出版地不明;古橋懐古館所蔵)

✽『延喜式』は、平安時代中期に律令の施行細則をまとめた法典。全50巻。
延喜5年(905)に醍醐天皇の命で藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、延長5年(927)に完成。

✽江戸後期、出雲松江藩の第8代藩主松平斉恒が塙保己一に『延喜式』の校訂を命じ、
斉恒と保己一の没後、その子斉貴の代の文政11年に「雲州本」(校定本)として完成した。

なお、一方の「麁服」を調進している三木家は、現在の徳島県美馬市にあり、この地はかつての阿波国にあたります。同国は南北朝時代に南朝方についたことで知られていますが、実は稲武地区でも、南朝方が敗れた後に後醍醐天皇の孫にあたる尹良親王(ゆきよししんのう)をかくまったという言い伝えが残されています。この南北朝をキーワードとする共通点には、どのような意味がかくされているのでしょうか? いずれは詳しい史実が明らかになるかもしれません。

三河地方では古墳時代より養蚕が始まる

日本では古来から、餌となる桑を栽培して蚕を育てる養蚕業が盛んでした。推古天皇12年(604)に制定された日本で最初の成文法「十七条憲法」には、「春から秋までは、農や桑の季節だから民を使ってはならない。農をしないで何を食べるのか、桑をしないで何を着るのか」といった記載が見られます。これを記したのは、言わずと知れた聖徳太子。かの人物も養蚕を非常に重要視したうちの一人でした。

そんな中、三河地方で養蚕が始まったとされているのは第13代天皇にあたる成務天皇の時代(古墳時代)。大和政権が傘下の国々の豪族を官職の一種である国造(くにのみやつこ)とし、行政の任にあたらせた時代から始まったといわれています。

その後、第21代天皇である雄略天皇の時代には、「穂の国」(現在の東三河地方)の国造を務めていた菟上足尼(うなかみのすくね)が、現在の豊川市にあたる「穂の原」を大養蚕地帯にしたという史実も。なお、菟上足尼は養蚕や機織りを世の中に広めた氏族の秦氏(はたうじ)とも関係が深かったそうです。

三河地方でとれる最高品質の「赤引糸」

三河の国で養蚕が発展した背景には、この地域の気候風土も影響しています。三河地方は年間を通して温暖な気候であることが特徴。そのため古来より上質な桑が育ち、その桑で育つ蚕の繭からは最高品質の糸をとることができました。これを「赤引糸(あかひきのいと)」と呼び、“赤”には“明”という漢字があてられることもあることから「明潔」という意味が、“引”には「糸を引き出す」といった意味があるといわれています。最初に記録されたのは『日本書紀』。持統天皇6年(692)に、三河国から献上された「赤引糸三十五斤」についての記述が見られます。

『日本書記』(寛文9年(1669)、武村市兵衛昌常ほか;古橋懐古館所蔵)
✽『日本書紀』は、神代から持統天皇11年(697)8月に至る歴史書。養老4年(720)に完成したと伝わる。
当館の所蔵本は、慶長15年(1610)の木活字版を、訓点を加えて重刻した寛文9年版。

この「赤引糸」で織られた絹織物は「大嘗祭」だけでなく、伊勢神宮で毎年春と秋に行われる祭祀「神御衣祭(かんみそさい)」の御料糸としても用いられます。神御衣(かんみそ)とは、神に捧げる衣服のこと。律令の解説書『令義解(りょうのぎげ)』における「神祇令(じんぎりょう、国家祭祀に関する律令)」には、「神御衣祭」の神御衣には三河の「赤引糸」を使用する、といった記述が残されています。

清原夏野 『令義解』(寛政12年(1800)跋、山城屋佐兵衛;古橋懐古館所蔵)
✽『令義解』は天長10年(833)に淳和天皇の命で清原夏野ら12人により編纂された律令解説書。全10巻で、大宝令・養老令を解説している。

また、豊川市にある千両犬頭神社(ちぎりけんとうじんじゃ)や蒲郡市にある赤日子神社(あかひこじんじゃ)など、三河地方には養蚕にゆかりの深い古社が多数。このことからも、養蚕が古くから三河地方の重要な産業の一つであったことが伺い知れます。

伊勢神宮の祭祀「神御衣祭」への献糸復興に向けて

その後、明治時代に入ると政府は「富国強兵」というスローガンを掲げ、製糸業を外貨獲得のための重要産業に位置付けました。明治5年(1872)には、愛知県権令の井関盛艮(いせきもりとめ)が「養蚕説諭大意」を布告。養蚕奨励の方針を打ち出すとともに、江戸時代に書かれた養蚕書「養蚕秘録」を複写した「養蚕仕法説諭録」を出版しました。

一方で先述した「神御衣祭」への献糸(けんし)は、応仁元年(1467)から約10年続いた応仁の乱を経て廃絶。その後は400年以上も途絶えたままでした。そんな中、『三河国養蚕由来記』と『三河蚕糸考』の著者でもある国学者の羽田野敬雄(はたのたかお)が、明治7年(1874)、古橋家6代の源六郎暉皃(てるのり)に「伊勢神宮の献糸を復活させては」と持ちかけたことにより、稲武地区の養蚕が大きな転機を迎えました。

「富家より富村」や「共存共栄」といった古橋家の家訓を大切にし、常に公益に努めてきた源六郎暉皃は、あらためて稲武地区が養蚕に適した土地であることを知り、さっそく稲橋村や武節町村など12村に桑の苗を頒布。明治11年(1878)には、稲橋村に男子のための、武節町村(後の武節村)には女子のための養蚕伝習所をそれぞれ開設するなど、新たな人材の育成にも取り組みました。

稲武地区をあげて御料糸の献納に取り組む

もちろん、養蚕の振興に尽力したのは古橋家の人間だけではありません。稲橋村の岡田伊三郎は、地元の養蚕伝習所における学びを経て愛知県選抜の養蚕生徒に選ばれ、福島県の養蚕伝習所に入所。火力を用いて蚕室を暖める火力養蚕の技術を習得し、明治14年(1881)に帰郷すると、稲橋村に火力養蚕伝習所を開設して自らが学んだ技術の普及に努めました。

また、武節町村の柄澤(からさわ)三十郎は自宅に製糸所を開設。明治時代にイタリアから輸入された座繰(ざくり)製糸法を広く地域の人たちに指導しました。

そして明治13年(1880)に愛知県と伊勢神宮に対して献糸を請願し、翌年に正式の認可をおりるのを待ってから、地元の養蚕家や製糸家などによる「稲橋村武節町村組合献糸会」(後の「稲橋村武節村組合献糸会」及び「稲武町献糸会」、現在の「豊田市稲武献糸会」)を創設。明治15年(1882)に同会として初めて御料糸を献納し、400年以上も途絶えていた「神御衣祭」への献糸復興に貢献しました。

愛知県令国貞廉平宛の「伊勢神宮御衣祭糸献納願」(明治13年;古橋懐古館所蔵)

さらに源六郎暉皃とその息子である古橋家7代の源六郎義真(よしざね)は、12村の中からとくに研究熱心な農業者を集め、この時代に各地で結成された「農談会」を全国に先駆けて開設。農事改良に役立つさまざまな知識や経験を交換し、さらなる養蚕の振興に大きな影響をもたらしました。

大正と昭和を経て平成度の「大嘗祭」へ

その後、明治25年(1892)に源六郎暉皃が逝去してからは、源六郎義真が亡き父の事業と想いを継承。「農談会」を「農会」へと発展させたほか、明治33年(1900)には稲橋八幡神社の境内に足踏み式の繰糸機や揚返し機などを供えた「神御衣御料繰糸工場」を開設しました。

明治33年、稲橋八幡宮境内に開設された神御衣御料繰糸工場
『大正四年御即位式 大嘗祭繒服御料繭調進写真帖』(古橋懐古館所蔵)

そして大正4年(1915)に行われた大正の「大嘗祭」では、「稲橋村武節村組合献糸会」として御料糸を調製。岡崎市の製糸会社「三龍社」が「繒服」を調進し、このことは県民全体の名誉とされました(次に行われた昭和の「大嘗祭」は「三龍社」が単独で「繒服」を調進)。

そうして戦前の最盛期には、稲武地区全体で400戸~500戸の養蚕農家が存在したといわれています。しかし戦後は、豊田市街地などに働きに出る人が急増。おもに若年層のあいだで、手間のかかる養蚕を敬遠する風潮が少しずつ広がっていきました。このような養蚕業の発展と衰退の歴史は、全国的にも共通しています。戦後は復興政策によって生産量が一時的に回復するものの、1970年代以降は一貫して減少傾向が続きました。

そんな中、第125代天皇にあたる明仁天皇が皇位を継承した平成元年の春頃より、「稲橋村武節村組合献糸会」の後継にあたる「稲武町献糸会」のもとには関係各所から「繒服」に関しての問い合わせが相次ぐように。そうして平成2年11月の「大嘗祭」に向け、稲武地区をあげて「繒服」の調進に向けた準備を進めていくことになるのでした(後編に続きます)。

文:藤原均(フリーライター)

【参考文献】

古橋茂人『大嘗祭繒服調進の記』 1990年 財団法人古橋会

大久保利美編『第125代天皇・天皇家と真珠 即位礼・大嘗祭』 1993年 産業倶楽部

古橋茂人『古橋源六郎道紀翁小伝』 1995年 財団法人古橋会

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