稲武地域が一丸となって取り組んだ平成度の「大嘗祭」(後編)

天皇陛下が皇位継承に伴って行う一世一代の重要な儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」。そのときに供えられる絹織物の「繒服(にぎたえ)」は、古くから三河地方が調進してきました。今回はその中から平成2年に行われた平成度の「大嘗祭」について、その詳しい取り組み内容を振り返ります。

目次

稲武町の町制施行50周年協賛事業として

平成2年(1990)11月の「新嘗祭(にいなめさい)」は、その前年1月に第125代天皇である明仁天皇が皇位を継承したことにより、新天皇の即位に伴う「大嘗祭(だいじょうさい)」として執り行われることになりました。そんな中、「繒服(にぎたえ)」の調進に関して「稲武町献糸会」に打診があったのは、平成元年(1989)の春頃のことでした。

ここで歴史を振り返ると、大正の「大嘗祭」では、同会の前身にあたる「稲橋村武節村組合献糸会」が御料繭を調製して、「繒服」の調進は岡崎市の製糸会社「三龍社」が行いました。そして次の昭和の「大嘗祭」では、その「三龍社」が単独で「繒服」を献上しました。しかし、その後に「三龍社」が事業転換したことなどもあり、平成度の「繒服」の調進には、宮内庁が稲武地区を想定しているとのことでした。

一方で「大嘗祭」が行われる平成2年は、稲武町が町制施行からちょうど50周年を迎える記念すべき年でもありました。そこで同会は、この「繒服」調進の取り組みを町の50周年協賛事業と位置づけることを提案。平成元年7月に行われた検討委員会において、「大変に名誉なことである」と満場一致の賛同が得られました。

「掃立祭」の実施と「繰糸殿」の建設

この平成度の「大嘗祭」における「繒服」の調進では、上納量の問題などもあり、稲武では御料糸の製糸までを行い、その後の機織り作業は木曽川町(現在の愛知県一宮市)の「織彦商店」が担当することになりました。

そして平成2年(1990)5月に稲武町農業協同組合の稚蚕飼育所で「大嘗祭繒服調進稚蚕掃立祭(はきたてさい)」を行いました。掃立とは、孵化した蚕を産卵紙から掃き取ること。蚕の飼育を始める最初の段階の作業にあたります。その後、稚蚕の1~2令期を経て、元養蚕指導員で当時は稲武町商工会の事務局長を務めていた金田平重など町内の3戸の養蚕家のもとに配られ(これを「配蚕(はいさん)」といいます)、本格的な飼育に入りました。

一方で「一般財団法人古橋会」は、会が運営する歴史民俗資料館「古橋懐古館」の敷地内に「繰糸殿」を新築し、町の事業に協賛することを計画。平成2年5月より着工し、翌月に落成しました。

掃立祭
繰糸殿

厳しい警備体制の確立と「製糸祭」の実施

すでに申し上げたとおり、「大嘗祭」は天皇陛下の皇位継承に伴って行われる一世一代の大変に重要な儀式です。今回は戦後始めての大嘗祭ということもあり、さまざまな思想が入り乱れて、脅迫行為や妨害行為が懸念されました。そのため、万が一の備えとして、飼育作業と並行して、いくつかの警備対策が講じられました。まず「繒服」は二組分を用意すること。さらに繭の保管場所などを別々に設けること、繰糸機を2台新造して1台を予備にすること、「繰糸殿」に防犯用の竹の囲いと投光器を設置することなどを決定するとともに、地元の設楽警察署と稲武町消防団による厳重な警備体制が敷かれることになりました。

このうち、繰糸機の製作については、稲武町の家具職人である谷沢治郎に依頼。同町(現在の御所貝津町)で製糸業を営んでいた山田二郎の協力を得るなどして、試運転にこぎつけました。試運転の当日には、近所の人たちが数多く集まり、繰糸機が快調に動き出すと大きな拍手が沸き起こったといいます。

一方で蚕も順調に成育し、平成2年(1990)5月の「配蚕」からおよそ1ヶ月後の6月下旬に、蚕に繭をつくらせるための「上蔟(じょうぞく)」を完了。蔟から繭を取り外す「収繭(しゅうけん)」の作業を経て、繭を乾燥させる「乾繭(かんけん)」の工程に移るため、豊橋市にある愛知蚕業センターに輸送されました。そして同年7月、新築されたばかりの「繰糸殿」で「大嘗祭繒服調進製糸祭」を実施。「繰糸殿」の西側に設けられた祭壇に繭を納めた箱が、その右には繰糸機がそれぞれ設置されました。

「製糸」の完了を経て二組分の「繒服」が完成

続いては「製糸」の作業に進みます。この重要な工程を任されたのは、先述した元養蚕指導員の金田平重と、その夫人である金田ちゑの。金田ちゑのは、長年にわたって伊勢神宮の献糸にも携わってきた人物ですから、まさに適任であったといえるでしょう。

「繒服」の量はおよそ4匹(1匹=2反)。今回は二組分を用意しますので、およそ8匹(16反)が必要になります。そこで金田夫妻と打ち合わせを行い、7月中に最初の一組を、次いで8月上旬までに二組目を繰糸する計画を立てました。そうして生糸をつくる「繰糸」や、小枠に巻き取った生糸を乾燥させながら大枠に巻き直す「揚げ返し」などの作業を経て、予定どおりに「製糸」を完了。8月中に「大嘗祭繒服御料糸」として木曽川町の「織彦商店」に送り届けることができました。

その後、「織彦商店」から完成の報告が届いたのは9月10日。12日に愛知県警の機動隊に護衛されながら受け取りを済ませ、一組を町役場の金庫に、もう一組を古橋家の本倉に格納しました。そしてこの夜より、町役場の宿直を一名増員。16日からは「繰糸殿」と古橋家で設楽警察署と県警機動隊による夜間警備が始まるなど、万全を期した警備体制が敷かれました。

繰糸 金田ちゑのさん
大嘗祭繒服

「大嘗祭繒服調進出発祭」と上納の儀

「稲武町献糸会」と宮内庁、愛知県警などと協議を重ねた結果、宮内庁に「繒服」を献上する上納の儀は10月1日に決行されることになりました。折しもその前夜には台風が接近し、愛知県下に大雨洪水警報が発令されましたが、当日の朝は台風一過の快晴。好天に恵まれた中、テレビ局の取材などに応じてから、10時より八幡神社で「大嘗祭繒服調進出発祭」を行いました。

宮内庁に参上する役目を任されたのは、「稲武町献糸会」の会長である古橋茂人と町議会の議長である片桐豊、養蚕家の代表として金田平重の合計3名。出発式や記念撮影を経て、11時に八幡神社を出発しました。まずは覆面パトカーや機動隊のワゴンに守られながら、車で名古屋駅に移動。新幹線に乗車して、東京駅で再び車に乗り換え、警察の先導で皇居内に入りました。

そして車は、「大嘗祭」が行われる神嘉殿の前で停車。3名は宮内庁の皇室経済主管の前で「繒服」献上の挨拶を行いました。その後に「繒服」の上納と検分を経て、祝詞奏上があり、上納の儀はつつがなく終了しました。

出発祭
上納の儀

地域総出の協力で成し遂げられた事業

その後、平成2年(1990)10月28日には稲武町の町制施行50周年記念式典が行われました。さらに翌11月には、宮内庁から「大嘗祭」への招待があり、「稲武町献糸会」の古橋茂人が「大嘗祭」の中心的な儀式である「大嘗宮の儀」に参列しました。

この平成度の「繒服」の調進は、地域の結束とさまざまな人たちの尽力によって、成し遂げることのできた大きな事業であり、その過程は稲武地区にとって「にぎたえの里―稲武」としてのアイデンティティをもたらし、さらには絹の伝統文化を次世代に継承するための重要なステップであったといえるでしょう。

文:藤原均(フリーライター)

【参考文献】

古橋茂人『大嘗祭繒服調進の記』 1990年 財団法人古橋会

大久保利美編『第125代天皇・天皇家と真珠 即位礼・大嘗祭』 1993年 産業倶楽部

古橋茂人『古橋源六郎道紀翁小伝』 1995年 財団法人古橋会

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