稲武地域の養蚕業と令和度の大嘗祭繒服(にぎたえ)調進

目次

はじめに

このたびは、今上上皇陛下(平成度)の大嘗祭に続いて今上天皇陛下(令和度)の大嘗祭繒服(にぎたえ)調進の御下命を承る光栄に浴しました。以下の通り、稲武地域の養蚕業と大嘗祭繒服調進の概要、そして古橋家と一般財団法人古橋会の概要を取りまとめました。ご参考になれば幸いです。
先人や地域社会の皆さまのご尽力に感謝するとともに、伝統と技能を後世に継承する重みを一層感じる機会となりました。令和の時代が素晴らしいものになることを祈念申し上げます。

稲武地域の養蚕

古くから三河地方は気候風土が養蚕に適しており、三河国の「赤引糸」として古来より御料糸(ごりょうし)に用いられてきました。延喜式などの古書にも、そのような記載があります。

明治7年(1874)に、稲武町(平成17年豊田市に合併)の古橋家6代当主の古橋源六郎暉皃(てるのり)は、平田門の国学者の羽田野敬雄(「三河蚕糸考」の著者)から、室町時代以来途絶えていた伊勢神宮献糸の古典復興を勧められます。
当時は殖産興業の時代で、暉皃は桑苗を稲武地域の各村に配布して養蚕業を奨励しました。

それ以来、稲武では養蚕が盛んになり、最盛期では稲武地域全体で養蚕農家が400軒ほどあったと言われています。
しかし、昭和40年代あたりから稲武の養蚕農家は減少し、令和元年(2019)の今日、稲武に養蚕農家は無く、有志団体「まゆっこクラブ」と(一財)古橋会が、桑畑の整備、蚕の飼育、糸取りなどの技能継承や、伝統文化の継承に取り組んでいます。

伊勢神宮献糸(けんし)と献糸会(けんしかい)

羽田野敬雄から伊勢神宮献糸の古典復興を勧められた古橋源六郎暉皃は、明治13年(1880)に「伊勢神宮神御衣(かんみそ)祭糸献納願」を愛知県令と伊勢神宮司庁に提出しました。伊勢神宮司庁は内務省とも協議し、明治14年(1881)5月30日付をもって正式認可となりました。
稲武地域では同年7月に献糸会を創設して、明治15年(1882)に献糸会として最初の献糸を行い、令和元年(2019)の今日まで1年も途切れること無く毎年続いています。

稲武町が豊田市に合併するまでは、伊勢神宮献糸事業は町役場が運営を行っていましたが、平成17年(2005)に豊田市に合併されると、豊田市役所には献糸事業や養蚕の伝統技能継承事業が引き継がれなかったため、現在は「まゆっこクラブ」と地域と(一財)古橋会が協力して継続しています。

伊勢神宮献糸
いなぶまゆっこクラブ

これまでの大嘗祭繒服調進

天皇陛下が御即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を特別に大嘗祭といいます。
この大嘗祭で重要な役割を担う「繒服」(にぎたえ。絹織物)は三河・稲武から調進することになっています。

大正の大嘗祭では、稲武で御料繭を作り、岡崎市の㈱三龍社で繰糸機織りされました。
昭和の大嘗祭では、㈱三龍社が単独で繒服を調進しました。
今上上皇陛下(平成)の大嘗祭では、稲武が単独で、稲武町役場が中心となって繒服を調進しました。

大正度の大嘗祭 稲橋村武節村組合献糸会

今上天皇陛下(令和)の大嘗祭繒服調進

(一財)古橋会とまゆっこクラブは、前年の平成30年(2018)から繒服調進に向けて特別態勢を敷きました。
稲武地域では稲武地域大嘗祭繒服調進特別委員会を結成し、まゆっこクラブが養蚕作業を実施し、(一財)古橋会が事務や資金を支援して、地域をあげて取り組むことにしました。

繒服は幅1尺、長さ5丈(鯨尺)の巻物2本(4匹分)からなる絹織物で、万が一に備えて予備分も作成しています。
令和元年10月2日に出発祭を斎行し、翌日の10月3日に上納しました。

大嘗宮の儀(主基殿供饌の儀)(皇居東御苑)
大嘗宮の儀(主基殿供饌の儀)(皇居東御苑) 宮内庁HPより
令和元年10月2日宮内庁大礼委員会「大嘗宮の儀関係資料」
繒服(にぎたえ)
令和度の大嘗祭繒服
令和度の大嘗祭繒服調進 宮内庁舎前(令和元年10月3日)
令和度の大嘗祭の繒服出発祭(令和元年10月2日)
大村秀章知事表敬訪問(令和元年10月10日)

古橋家と一般財団法人古橋会の概要

豊田市稲武の古橋家

愛知県豊田市の稲武町(平成17年豊田市に合併)を拠点とする豪農古橋家は、享保2年(1717)に岐阜県中津川から初代古橋源六郎義次が稲武町に移住をして、酒造業をはじめたことが起源となっています。源六郎は、代々当主の襲名です。

酒造業以外にも、味噌醸造や金融業などを営み、地域の名望家として村政にも関わってきました。
古橋家中興の祖と言われる6代当主の古橋源六郎暉皃(てるのり)は、平成26年(2014)の第187回国会における安倍首相の所信表明演説にも紹介され、幕末から明治維新の時代に、天保の飢饉の救済に奔走し、地域に林業を奨励し、養蚕業などの殖産興業を促し、明月清風校という私学校を建設し、農談会を創始するなど、「富家より富村」「共存共栄」という家訓を実践しました。
その後、7代当主の古橋源六郎義真(よしざね)も暉皃の事業を継承して、農談会を農会へと発展させ、産馬事業を奨励し、稲橋銀行を創設しました。

財団法人古橋会

太平洋戦争終戦直後の昭和21年(1946)、8代当主の古橋源六郎道紀(ちのり)が亡くなり、古橋家の資産の大半を遺贈して財団法人古橋会を設立しました。

戦後の混迷期にあって、戦後から15年間ほどは、稲武町役場の予算に古橋会の予算が匹敵する規模で行政活動を補完しました。以下にその一部を抜粋します。
・昭和23年(1948)から、奨学施設義真会館を名古屋市内に建設し、奥三河の子弟の下宿先として提供。
・昭和26年(1951)から、鶴望保育園という保育園を大井平公園に建設開園。
・昭和28年(1953)から、古橋家旧酒蔵を改築した総合病院(内科、外科、産婦人科)を開業。
・昭和41年(1966)から、古橋家の所蔵していた幕末維新の志士達の書画や古文書等を展示する古橋懐古館という歴史民俗資料館を一般公開。
このほか、名古屋大学演習林の誘致や産業誘致、家政塾の運営などに尽力しました。

また、所蔵する史料は、古文書だけで約2万5千点あり、書簡手紙、書画骨董、民具民俗史料を合わせると膨大な量になります。
昭和36年(1961)から古橋家文書研究会という芳賀登(元筑波大学副学長)を中心とした研究グループが発足し、以来50年にわたり古橋家の古文書の整理や目録編集、調査研究を行ってきました。
平成29年(2017)には新しい収蔵庫を建設し、健全な保存環境を整備しました。

近年の一般財団法人古橋会の運営

戦後の財団法人古橋会の主要な収益事業は林業で、明治期を中心に植林した山林の管理と活用を行ってきました。

林業経営が厳しくなってからは、上記のような公益的事業を公的資金に頼らずに維持するのは難しく、各事業は現在以下の通りとなっています。
・奨学施設は、売却のうえで、売却資金を原資として稲武中学校卒業生への給付型奨学金を実施(愛知県立田口高校稲武分校の廃校以後の平成20年から10年間は全員対象)。現在も規模を縮小して継続しています。
・保育園は移転のうえで町営移行。
・総合病院は閉鎖し、別に古橋クリニックという診療所を建設。
・古橋懐古館は平成30年(2018)12月から無期限休館中で、所蔵史料の整理と活用に注力。

平成24年(2012)から、一般財団法人への移行法人となっています。
現経営陣は、代表理事は古橋敬義(9代当主 古橋源六郎の長男)、常務理事は古橋真人で、地域と(一財)古橋会が共に持続可能に栄えられるよう、事業を展開しています。

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この記事を書いた人

私たちは、300年以上の歴史がある豪農古橋家の歴史と家訓「家は徳に栄える」を受け継ぐ財団法人です。
私たちは、豪農旧家、中山間地域、歴史や伝統文化など、古めかしくて時代遅れとみなされたものを、現代においても通用する形に磨き上げて、人と人との繋がりが人を支え、人間性に根ざした、与え合う社会の実現に貢献していきます。

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