古橋暉皃と農談会ー近代農業への道ー

古橋史江「古橋暉皃と農談会ー近代農業への道ー」京都芸術大学修士論文,2022

要約

 農談会は明治10年代に全国各地の農村で農事改良を目的として設立された会合で、農産物の栽培法の交流や種子交換などが行われた。その中心的な役割を果たしたのが老農や篤農家である。北設楽郡の農談会は愛知県で最初に設立されたもので、全国的にみても極めて早い事例であった。

 隣村の老農を自宅に招いて開かれた農談会での各人の発言を、古橋暉皃(てるのり)が記録した『農業会雑誌』が筆者宅に遺されている。これを基に、あわせて筆者宅蔵の手書き史料と印刷された史料の関係を読み解き、北設楽郡の農談会がどのように組織化されたのか。農談会を立ち上げた暉皃の思いは何であったのか。以上について明らかにすることを目的とする。

明治11年(1878)5月2日に近隣十二ヶ村で農談会を開き、翌12年(1879)8月には、農談郡会を開催している。その直後に部落会を開き、郡会・部落会・村会の三層構造になる。この三層構造が北設楽郡農談会の特徴である。そして暉皃の発案で、各村に農事周旋人を設置する。農事周旋人は、村の代表者として部落会・郡会に出席する。その際に、農談村会での決定事項をまとめた議決書を部落会に、さらに部落会での議決書を郡会に持参する。農談郡会での重要な発言や決議事項を『農談会第一回報告 北設楽郡』という印刷物として配布した。この報告書は、同18年(1885)の『農談会第十二回報告 北設楽郡』まで遺されている。同時に暉皃は、農談郡会・部落会・村会の各規則を作成し、「農事周旋人選挙并費用支給規則」、「虫害駆除費賦課規則」などを作っている。

 「農談会報告編纂綱領」という史料には、暉皃自筆の朱書きで編纂方法が書かれており農談郡会の報告書は、暉皃作成であることがわかる。この朱書き部分には、この編纂方法を年々守って農事改良をすれば、自然に本郡に適した農書になるであろうと書かれている。また、農談郡会の立ち上げ当初から、郡役所と密接な関係を持っていた。郡役所の書記官が印刷前の報告書の読めない文字の意味を聞き、早急に返事を下さいという暉皃宛ての書簡があることから、行政側は老農たちの活動を支援していることがわかる。暉皃は、農事に優れた者を賞与しようとすると、「作徳米を増収しようとしているのだろう」と悪口を言われるという過去の経験から、村人に生活の改善に向けて自ら力を尽くすようになってもらうには、行政に動いてもらうことが重要であるという認識を持っている。

 明治14年(1881)10月の戸長会に於いて農談会規則の修成案が可決される。印刷された『農談会第五回報告 北設楽郡』の最後に「農談会第五回報告附録」として掲載された「愛知県北設楽郡農談会規則修成案」と同じものが、暉皃自筆で遺されているので、暉皃が修成案を作っていることがわかる。農談郡会・部落会・村会の各規則が、修成前と後でどのように変化したのかを考察した。農事周旋人及び周旋人補員を置いて、出来るだけ村の隅々まで農談会での議決を行き渡らせようとし、「会員ノ外篤志ニシテ出会ヲ請フモノアルトキハ、会頭及会員ノ可否スル所ニ依ル」という条目を村会・部落会・郡会規則のいずれにも立てている。規則修成後の村会規則には、村会の会員は全村戸主としている。村人ひとり一人が前向きに農事に取り組むための基礎作りとしての農談会立ち上げだった。

 農談会で、農民は長年の経験を基に農事改良、虫害予防、良い種子の選び方について話し合っている。試作・実験・発明と新しい農業を開拓するために意欲的な活動をしている。このことから、先行研究における、高木俊輔『明治維新と豪農 古橋暉皃の生涯』の「行政側の指導性が強まった。」と、乾宏巳『豪農経営の史的展開』の「本来農談会のもっていた老農の個別具体的な経験技術の交流という特色が急速に薄れ、行政側の作成した共通テーマが権力的に強制されることになった。」は共に否定出来る。伴野泰弘「明治十年代の愛知県における「農事改良運動」の展開(二)」に「郡レベルの農談会が農民的・生産者的側面と行政的・統制的側面の矛盾を抱えていた。」と書かれているが、郡レベルの農談会は生産者である農民が活動の主体となっていた。國雄行『近代日本と農政 明治前期の勧農政策』に「農業振興とともに、農民に報国心を植込み、国家に取り込もうとしたのである。」と書かれている。しかし農民は国家に取り込まれてはいない。より良い作物を作り、土地に適合した種を見つけ、収穫量を上げるために努力している。その結果として国が栄えることを望んでいる。

 暉皃は農談会を開設し、農事改良を目的とする交流によって村落の和合が生まれ、人心の安寧、村の安定が国を繁栄させると確信していた。それは、村落のリーダー的立場である暉皃が、個人的な望みで農談会を運営する気持ちは全くなかったことを示している。以上のことが、農談会開設の暉皃独自の思いだと筆者は考える。

論文

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