正義感あふれる類まれな三河男児:古橋会初代理事長 川村貞四郎の歩み(後編)

財団法人古橋会は、第二次世界大戦が終戦した年の翌年にあたる昭和21年(1946)に設立されました。その初代理事長に就任したのは、古橋家7代源六郎義真の三男で八代の道紀の弟である、当時55歳の川村貞四郎。大正時代から昭和前期にかけて警察官僚や山形県知事などを歴任し、公明正大な志を胸に、破天荒ともいえるフロンティア精神と行動力を発揮して、数々の重要な改革を断行してきた人物です。

本稿では、そんな川村の半生を辿りながら、代表的な功績の一つひとつを詳しくご紹介。戦前から戦中にかけての激動の時代を駆け抜けた、正義感あふれる類まれな三河男児の姿に迫ります。

目次

財団法人古橋会を設立し、初代理事長として生家と故郷のために全力を注ぐ

昭和20年(1945)8月15日の第二次世界大戦終結を経て、戦後の混乱を避けるべく稲武に疎開した川村貞四郎。同年12月には、長兄である道紀(ちのり、古橋家8代源六郎道紀)の容態が思わしくないとの報を受けて急遽生家である古橋家に帰郷し、古橋家の将来や新たな財団法人の設立などについて、道紀と夜を徹して意見を交わし合いました。

ところが道紀は、日を経ずしてこの世を去ることに。残された川村は、古橋家の後見人としての責務を双肩に担うことになりました。そして昭和21年(1946)3月、道紀の遺志を受け継いで財団法人古橋会を設立。自らが初代理事長に就任しました。

後に川村は、当時を振り返って「これにより残りの人生の指針が決定された。自己を捨てて、古橋家の伝統精神を生かすことに余生を捧げていこうと決意した」と述懐しています。さらに自らの故郷に対しても、「さまざまな公益事業を推進することで、これからの地域の繁栄に寄与していきたい」と一念発起。山間地における酪農の研究、肥料や土壌の分析試験設備の設置など、さまざまなかたちで地元産業の奨励に努めました。

その後、酪農に関しては昭和29年(1954)に新たな牛乳処理場を設立するとともに乳牛を導入。結果的にこの取り組みは、奥三河地方における酪農事業の礎となり、後にそのすべてを地元の農業共同組合に委託しました。

稲武牛乳処理場
稲武牛乳処理場

地域の人たちの暮らしを豊かにする公共鉱泉浴場や学生寮、公民館を次々と開設

一方で川村は、地域に対しての報恩事業として多種多様な施設の建設にも尽力しました。昭和21年(1946)6月には、湧出する炭酸泉と硫黄泉を地元住民の保健と療養に生かすべく、公共鉱泉浴場「保道会館(ほどうかいかん)」を開設。昭和27年(1952)には裏手の山腹に保養所も増設しました。

さらに昭和21年(1946)の晩秋には、愛知県下における教育の中心地であった名古屋市で宅地を購入。戦後の混乱と貧困の中でも、故郷の子どもたちが適切な学習機会を得られるよう、炊事室や食堂、浴室などを備えた学生寮「義真会館(ぎしんかいかん)」を開設しました。

保道会館全景(手前本館、奥保養所)
義真会館全景(右本館、左管理人住宅)

また、当時の文部省は公民館の建設を積極的に奨励していました。そこで川村は、古橋家とゆかりの深い大井平公園の山腹を切り拓いて敷地を造成。昭和24年(1949)に映写機やピアノ、200組の食器などを備え、講演会や映写会、結婚式などの会場として活用できる公民館「暉保会館(きほかいかん)」を開設しました。

その後は「暉保会館」に各種遊具を備えた児童遊園地を附設し、昭和26年(1951)に「鶴望保育園(かくぼうほいくえん)」を開園。時代に先駆けた取り組みとして注目を集め、はるばる岐阜県恵那郡(当時)の下原田村から通園してくる園児もいたそうです。なお、同園は昭和43年(1968)に廃園となり、代わって町営の稲武町立保育園が開園しました。

暉保会館
鶴望保育園の園児たち
暉保会館(鶴望保育園)
大井平公園内の暉保会館(鶴望保育園)の跡地

前述した酪農事業と同様、このように古橋会が新しい分野でまず先陣を切り、町の財政面などが整った後に譲り渡していくというやり方は、川村が意識的に心がけていたことでもありました。

洋画家・牧野虎雄の作品や古橋家の歴史画、民具類などを展示する「古橋懐古館」を開館

現在の「古橋懐古館」も、この時期に川村が手がけた施設の一つです。その前身となったのは、昭和22年(1947)に古橋家の下店の一隅を改造して一般公開されるようになった私立図書室。文化施設はおろか、書店すらもない当時の郷土の実情を鑑みての取り組みでした。

その後、川村は施設を拡張するために旧味噌蔵を大改造。昭和25年(1950)、川村の親友でもあった洋画家・牧野虎雄の作品や、古橋家の歴史画などを展示公開する「古橋会館」(後の3号館)を開館しました。次いで昭和33年(1958)に「懐古館」(後の2号館)を建設。さらに昭和41年(1966)には「古橋会館」と「懐古館」を連結し、什器や民具類などの展示品を加えた「古橋懐古館」として生まれ変わりました。

古橋会館(後に3号館に改称)
最初の懐古館(後に2号館に改称)

そして昭和46年(1971)には、「古橋医療研究所」という病院施設として使われていた旧酒蔵を改修し、これを新たに「1号館」と称し、初期の「古橋会館」を「3号館」とし、昭和33年に建設された「懐古館」を「2号館」としました。これら三棟の建物は渡り廊下で連結され、歴史民俗資料館として整備されました。昭和52年(1977)には新たに古文書研修所を開設。これは長年に渡り、古橋家に残る古文書の調査研究に尽力した愛知県豊橋市出身の日本史学者・芳賀登(はがのぼる)をはじめとする学者たちの業績に応えることが目的でした。

昭和46年頃の古橋懐古館
古橋家文書研究会調査期間中の一日研修
(昭和43年8月 藤村記念館前)

※なお、「古橋懐古館」で「懐古館」(2号館)と旧本蔵にあたる部分は、老朽化の進行を理由に平成29年(2017)で解体。新しい収蔵庫を建設した後、翌年11月をもって一般公開を無期限停止し、現在は所蔵資料の整理や活用などに取り組んでいます。

小学校への寄贈や古橋林業研究所の開設などを通して社会教育や地元産業の振興に努める

古橋会による取り組みは、ほかにも多岐に渡ります。その中でもとくに川村が力を注いだ事業は、地域の未来を担っていく子どもたちを対象とした社会教育の振興でした。「暉保会館」や「古橋懐古館」の開設も、そうした事業の一環であったといえるでしょう。

また、明治時代に古橋家の尽力によって開校した稲橋小学校(現在の豊田市立稲武小学校)に対しては、昭和23年(1948)にピアノなどの楽器や顕微鏡、各種図書を寄贈。昭和37年(1962)には、校舎に隣接して理科教育の振興を助ける郷土博物館を建設しました。一方で昭和25年(1950)には、女子を対象とする「古橋家政塾」を開校。冬季の農閑期を利用して料理や洋裁などを教えました。

そして活動のもう一つの柱であった産業振興に向けては、酪農だけに限らず、工業や医療、林業などの分野でもさまざまな事業を展開しました。まず工業における代表的な取り組みとして挙げられるのは、トヨタ系縫製メーカーによる新会社、トヨタケ工業株式会社の創設に向けた協力。株式の一部を出資することで、同メーカーの稲武町進出をサポートし、地元の雇用創出に大きく貢献しました。

古橋家政塾調理室
トヨタケ工業前景

医療面においては、昭和29年(1954)に「古橋医療研究所」を開設。内科と外科、産婦人科を備える総合病院として地域の医療を支えました(同所は昭和41年⦅1966⦆に閉鎖)。

一方で林業は、古橋家が江戸時代末期から力を入れてきた事業です。昭和28年(1953)には名古屋大学農学部から要請があり、演習林とその事務所、職員住宅、実験室などを設置。古橋会としてもその技術指導を受け、昭和43年(1968)には実践的林業の開発を目的とする「古橋林業研究所」を開設しました。

古橋医療研究所
古橋林業研究所

なお、昭和28年(1953)には高松宮殿下(高松宮宣仁親王)が稲武を来訪。古橋家に宿泊し、愛知県農業試験場稲武分場の視察や、国の重要無形民俗文化財にも指定されている民俗芸能「花祭り」の観覧などを行いました。古橋会ではこれを記念し、従来の山林に加えて新たに高松宮記念林を増設。さらに高松宮殿下の来訪に合わせて改装を行なった古橋家本宅の新座敷は、令和4年(2022)の春に開催した「小川珊鶴(おがわさんかく)雛人形コレクション展」で、初めて一般に公開されました。

高松宮殿下 古橋家御宿泊記念
高松宮殿下 稲武分場御視察

紺綬褒章と藍綬褒章を受章した後、昭和62年に96歳で天寿を全うする

このような古橋会としての幅広い取り組みを通して、川村は昭和37年(1962)に紺綬褒章と木杯を、昭和43年(1968)には藍綬褒章を賜りました。さらに晩年の昭和60年(1985)には、稲武町から名誉町民の称号を拝受。そして、その2年後にあたる昭和62年(1987)6月18日、多くの人たちに惜しまれながら、96歳でその長い生涯を終えました。

貞和会館前 川村理事長夫婦
(昭和43年、78歳)
稲武にて、ひまご真人(現古橋会常務理事)をあやす理事長夫婦
(昭和59年、94歳)

しかし生前、川村は「事業は人にあり」と考え、後継者の育成にも努めてきました。古橋家9代源六郎を受け継いだ三男・敬三の後見人となる一方、次女・千嘉子の夫で義理の息子にあたる茂人を古橋会の常務理事として養成。さらに古橋会の従業員に対しても、古橋興産有限会社を設立することで自立の道を切り拓くなど、将来への備えにも万全を期していました。

警察官僚を皮切りに、山形県知事などを経て、後には古橋会の初代理事長として故郷の発展に全力を注いだ川村貞四郎。その大いなる志は、残された者たちを通して未来へと引き継がれ、今もなお、古橋会の根幹を支え続けているといえるでしょう。

文:藤原均(フリーライター)

参考文献

川村貞四郎『我が半生』 1968年 財団法人古橋会

古橋茂人『古橋家の歴史』 1977年 財団法人古橋会

古橋茂人『古橋源六郎道紀翁小伝』 2001年 財団法人古橋会

川村貞四郎著・古橋茂人編集『三河男児 川村貞四郎Ⅲ 闘魂の記』 2003年 株式会社雄山閣

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