正義感あふれる類まれな三河男児:古橋会初代理事長 川村貞四郎の歩み(前編)

財団法人古橋会は、第二次世界大戦が終戦した年の翌年にあたる昭和21年(1946)に設立されました。その初代理事長に就任したのは、古橋家7代源六郎義真(よしざね)の三男で八代の道紀(ちのり)の弟である、当時55歳の川村貞四郎。大正時代から昭和前期にかけて警察官僚や山形県知事などを歴任し、公明正大な志を胸に、破天荒ともいえるフロンティア精神と行動力を発揮して、数々の重要な改革を断行してきた人物です。

本稿では、そんな川村の半生を辿りながら、代表的な功績の一つひとつを詳しくご紹介。戦前から戦後にかけての激動の時代を駆け抜けた、正義感あふれる類まれな三河男児の姿に迫ります。

目次

警視庁の各課を渡り歩きながら頭角を現す

川村貞四郎は、明治23年(1890)に愛知県北設楽郡稲橋村(現在の豊田市稲武町)で生まれました。長じて後は愛知県立第二中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)や、東京都本郷区(現在の文京区)の第一高等学校(現在の東京大学教養学部ほか)などで学び、明治44年(1911)に東京帝国大学(現在の東京大学)の法学科に進学しました。

岡崎中学校一年生の友人とともに(明治37年、14歳)
右一が貞四郎 
第一高等学校第一部独法科卒業生(明治44年、21歳)
最後列左から6人目が貞四郎

そして大正4年(1915)5月に卒業し、6月より警察や地方行政を所管する内務省(戦後に解体)に入省。警視庁の警務部警衛課兼警務課に配属されました。しかし川村は、日を置かずして旧来の慣習に囚われて融通のきかない庁内での日々に不安を募らせるようになり、「新進の資格者として、行くべき道を見出さねば」と一念発起。勤務の合間を縫って、巡査の退隠料(現在の退職年金)に関する法律論や水害警察についての論文をまとめ上げました。

その後、この法律論などが上司の目に留まり、早くも同年8月には警務科兼庶務課に異動。ここでも独自に遺失物取り扱いの法律論と実際論を書き上げた後、次いで12月からは官房文書課に配属され、各部の総監決済書類を審査したり、文書課兼秘書課の改革に乗り出したり、さらには警視庁の改革私案をまとめ上げるなど、東大法学科卒である法学士としての能力を十全に発揮していきました。

そして大正6年(1917)1月に警務部鑑識課へと異動してからは、いち早く留置場の改善に着手。そのほかには、当時はまだ珍しかった警察犬の導入にも力を注ぎました。

警視庁警務部警衛課兼警務課任官
(大正4年、25歳)

一方でこの時期は、記者クラブの例会で痛飲したために厩舎で一夜を明かすことになったり、ひどい二日酔いを隠したままで重要な内務大臣の視察を乗り切ったりと、お酒にまつわる武勇伝も少なくありません。当時の川村は、まだ20代後半の血気盛んな頃。こうしたエピソードからは、ただ実直に職務を遂行していくような、いわゆる仕事人間の枠だけには収まり切らない、いかにも明治生まれらしいバンカラな気風が感じ取れるのではないでしょうか。

悪名高い警察署を改善し、警察病院の開設を目指す

ところが「出る杭は打たれる」とのことわざにもあるとおり、庁内にはこうした川村の八面六臂の活躍を快く思わない人もいたようです。今となってはそのことが原因であったのかはわかりませんが、大正6(1917)9月付けで、川村は本所区(現在の墨田区)にある本所太平警察署に配属されることが決定。その当時、“罪を犯して流されたところ”という意味の「謫所(たくしょ)」というあだ名が付けられていた同署で、署長を務めることになったのでした。

この異動に対して、川村は大きな不満を抱いていたといいます。しかしだからといって、いつまでも落胆しているような人物ではありません。着任してすぐに、署員の地位や管内の状況、執務の実態などに改善すべき点が多々あることを見て取ると、「この署こそを、資格者の栄転の過程として踏むべき警察署にしよう」という強い決意のもと、すぐさま改革に着手。定期訓練を通して巡査の教養指導に努めたり、毎月13日に警察官としての正しい道を講じる「十三日会」を立ち上げたりと、さまざまな活動に邁進していきました。

そんな中でもとくに力を入れたのは、警察官とその家族を対象とする警察病院の設立を目指す取り組みであったといえるでしょう。当時の川村は、職責の重さに比べて報われることの少ない警察官の待遇に心を痛め、何よりも健康面での施策が不足していることに大きな憤りを感じていました。そこで先輩や上司などの支援も得て、病院設立の必要性を訴える稟議書を提出。その後、川村自身は再び転属となって直接的に事業を先導する立場からは離れましたが、このときの積極的な働きかけが発端となり、約10年後の昭和4年(1929)3月、麹町区(現在の千代田区)富士見町の旧宮内省雅楽部跡地に、東京警察病院が開設される運びになったのでした。

なお、同病院は終戦を経て一般にも開放されるようになった後、平成20年(2008)には中野区に移転。現在も地域の中核病院として、多くの人に質の高い医療を提供し続けています。

本省に配属されて、五大法案の成立や関東大震災の善後処置に努める

一方で本所太平警察署は、わずか1年足らずで東京東部における花形警察署へと大きな変貌を遂げ、本庁からも注目されるようになっていきました。川村はその功績が認められ、大正7年(1918)6月付けで本省への栄転が決定。衛生局防疫課の防疫官兼内務書記官に抜擢されました。

折しも当時の衛生局は、医師法と結核予防法、トラホーム(当時、国内に広く蔓延して数多くの失明者を出していた眼感染症)予防法、阿片法、精神病院法という、いわゆる五大法案についての議論が局内で活発に交わされていた頃。川村の入局によって、その議論はさらに白熱していきました。そんな中で川村は、トラホーム予防法の主任立案者を務めるとともに、ほかの4案における審議にも注力。五大法案の成立にあたって大きな役割を果たすことになりました。

そして私生活の面では、衛生局長の令嬢で後に妻となる杉山美和さんとの出会いがあったのもこの頃。翌年の大正8年(1919)5月に行われた結婚披露宴には、当時の原敬首相の姿もあったといいます。

結婚記念(大正8年5月21日、28歳)

しかし川村は、その後も満州結核予防協会の発会式に出席したり、コレラやチフスの流行地を視察したりと国内外を奔走。大正10年(1921)9月に内務事務官となり、警保局保安課に勤務してからも、当時社会問題となっていた労働運動や社会主義運動などの調査と研究、英国皇太子であるエドワード8世の来日に備えての各地検分などに忙殺され、良くも悪くも、ゆっくりと家庭生活を楽しむような余裕はなかったようです。

そんな中、大正12年(1923)9月1日には、10万人を超える死者・行方不明者を出すことになった関東大震災が起こりました。この未曾有の大災害によって、川村も家屋と家財を失いましたが、警保局の事務官として被災地の視察や震災情報の広報などといった善後処置に奮闘。翌年にはアメリカやヨーロッパ、アジアなどを約1年かけて巡る海外視察旅行に出発し、帰国後は外事課事務官として外国人対策を任されるなど、慌ただしくも充実した日々が続いていきました。

警視庁に復帰し、公衆衛生の刷新と庁内の改革に着手

そして大正14年(1925)9月、本省における約7年間の滅私奉公を経て、古巣である警視庁に復帰。警視庁書記官となり、衛生部長として幅広く公衆衛生の刷新を図っていくことになりました。その一環として、時代にそぐわなくなっていた衛生法規を改正。さらに飲料水と井戸の改善、売薬の誇大広告の取り締まり、国内初であった牛乳の低温殺菌法の採用など、次々と新しい指導方針を発表して新聞各紙を賑わせました。

また、この頃は関東大震災による混乱が原因で狂犬病が激増していたため、市民への注意喚起を行うとともに、野犬の捕獲や飼い犬の予防接種などを徹底。そうして感染拡大を収束させたことも、当時の大きな功績の一つに数えられます。

その後、時代は昭和に入り、川村は内務大臣から直々の要請を受けて保安部に異動。昭和2年(1927)11月より、今度は保安部長として地域の平和と安全を守っていくことになったのでした。とくに力を入れたのは、各課の立て直しや適材適所を重視した人事の刷新、事務の簡易化と能率化など。いずれも旧弊を正し、新たに公明正大な警察像を打ち立てていくための取り組みであったといえるでしょう。

しかし、さまざまな改革が実を結んでいく一方で、こうした川村の厳正な手段と態度に反発心を募らせる者も少なくなかったようです。そのため水面下では、隙あらば警視庁から追放してやろうと目論む不穏な動きが広がりつつあったのでした(中編に続きます)。

警視庁書記官、衛生部長時代
(大正15年1月、35歳)

文:藤原均(フリーライター)

参考文献

川村貞四郎『我が半生』 1968年 財団法人古橋会

川村貞四郎『明治・大正政治史料 官界の表裏』 1974年 雄山閣出版

川村貞四郎著・古橋茂人編集『三河男児 川村貞四郎Ⅰ 生立ちの記』 1997年 雄山閣出版株式会社

川村貞四郎著・古橋茂人編集『三河男児 川村貞四郎Ⅱ 青春の記』 1999年 雄山閣出版株式会社

川村貞四郎著・古橋茂人編集『三河男児 川村貞四郎Ⅲ 闘魂の記』 2003年 株式会社雄山閣

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