牧野虎雄が描く川村貞四郎との友情【懐古館だより10号より】

古橋懐古館は、画家牧野虎雄(1890~1946)の作品20点以上を所蔵していますが、これらは財団法人古橋会初代理事長川村貞四郎(1890~1987)から寄贈されたものです。

本記事は牧野虎雄と川村貞四郎の交遊などを中心に、収蔵作品の一部を紹介します。なお、本記事は古橋義人「大正・昭和の画家 牧野虎雄の作品 第1回」(『古橋懐古館だより 10号』 2021年10月発行)をもとにして編集したものです。

目次

大正・昭和時代の洋画家:牧野虎雄

牧野虎雄肖像写真 古橋懐古館所蔵

牧野虎雄は明治23年(1890)に新潟県高田市に牧野藤一郎の二男として生まれました。5歳の時に父の仕事の都合により東京で暮らすようになりました。父は凧揚げの名手と言われ、虎雄も凧揚げが上手であったと言われています。

明治41年に東京美術学校(現東京芸術大学)に入り、在学中に文部省美術展覧会(文展)に入選しました。大正11年(1922)以後何度か帝国美術院展覧会(帝展)審査員に任命されています。

昭和4年(1929)帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授に就任、その後同校西洋画科長となっています。多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)創設準備の常任評議員として創設者の一員となり、昭和10年同大学の西洋画科主任教授となりました。

昭和21年10月に56歳で亡くなりましたが、没後の昭和23年に公開された映画「生きている画像」(千葉泰樹 監督、大河内傳次郎 主演)では、「瓢人先生」のモデルとしても話題を呼びました。

生涯の親友:牧野虎雄と川村貞四郎

川村貞四郎は古橋家七代源六郎義真の三男で、八代の道紀の弟です。明治23年愛知県北設楽郡稲橋村(現在の豊田市稲武町)で生まれ、第一高等学校から東京帝国大学法学科に進みました。その後、内務官僚になり、山形県知事や東洋インキ製造株式会社社長などを務めました。兄の道紀の遺言により、昭和21年に財団法人古橋会が設立されました。川村は初代古橋会の理事長となり、古橋会の地盤を築きました。昭和62年に96歳で亡くなりました。

牧野虎雄と川村貞四郎の出会いは、二人が東京の日本中学校に在学していた時代に遡ります。日本中学校は、明治大正期に活躍した思想家教育家の杉浦重剛(1855~1924)が明治24年(1891)に設立した学校で、東京英語学校(明治18年創立)を前身とします。設立当初から共立学校(現・開成中学校高等学校)とともに第一高等学校(東京帝国大学予科)への進学率が高く、画家の横山大観や菱田春草なども卒業生として名を連ねています。

日本中学校5年級同窓(明治41年3月17日撮影) 
下から一列目右から3人目は川村貞四郎、下から五列目左から6人目は牧野虎雄。

牧野虎雄は日本中学校3年時に、画家黒田清輝の勧めで白馬会洋画研究所に入り、その絵画の才能を早く中学時代から認められていました。一方、川村貞四郎は愛知二中(現・愛知県立岡崎高等学校)に在学していたが、校内での事件をきっかけに明治39年10月日本中学校に転校しました。兄の古橋卓四郎(義真の次男)が杉浦重剛の門下生であったことも、この転校に影響を与えたと思われます。

その後、牧野は東京美術学校へ進み、川村は東京帝国大学ドイツ法学科へ進み、全く別の道に進んだが、不思議と二人の相性は良く、二人の交遊は長く続きました。

酒の心得:牧野虎雄とその「酒訓」

牧野虎雄は無類の酒好きであったが、人前で乱れることはありませんでした。生涯独身であり、家庭を持つ川村の自宅をしばしば訪れ、酒を酌み交わしていました。川村貞四郎の妻美和の話では、手のかからない客で、灘の清酒「白鷹」と、酒肴として削りたての鰹節に揉み海苔をかけ、醤油を少し垂らして出すだけでご機嫌だったといいます。「このわた」があれば目を細めて嘗めるように食していたらしいです。この牧野虎雄が酒飲みの心得として「酒訓」を残しています。

牧野虎雄「酒訓」(1937年)

酒訓 

たくさん飮むが自慢になり候ハず されば酒量を誇る事禁物に候 のみて楽ミ愉快なるハよし 酔ふて乱れ狂ひ人に迷惑なるは醜く 甚たのもしからず候 各自己れの分量にて 我慢なされ度く何れも酒のみのたしなみに候 右よくよく御承引の上は酒をたす可く候

昭和53年愛知県設楽事務所に一時赴任していた愛知県職員福田特雄氏が古橋懐古館の牧野虎雄の絵をご覧になり、父の福田翠光(1895~1973)の遺品であったこの書を当館に寄贈しています。福田翠光は帝展に連続入選された高名な日本画家であり、鷹の絵が得意で「タカの翠光」といわれた方です。

軸の箱書きに「是れハ大低の人によからうと我家の酒訓と定めしなり 中山貞夫氏面白がって遂に凸版下に用ふ 丁丑(昭和12年)春 虎題」とあります。文中の「中山貞夫」は、昭和初期の美術雑誌「現代美術」を主宰していました。

戦災に失われた牧野虎雄の作品と「牡丹」

『現代美術』第4巻第4号(昭和12年発行)では牧野虎雄が特集されました。その号には川村貞四郎の談話が収められています。

記事によると、川村は当時、牧野の日本画を70幅あまり所有しており、100幅集まったら展覧会を開催する予定でした。しかし、残念ながらこれらの日本画は戦災で多く消失してしまいました。特集の中に掲載された「鍾馗(しょうき」と題された日本画の写真がその名残をとどめています。

このエピソードは、当館所蔵の牧野の洋画「牡丹」の裏にも書かれています。

「畏友川村貞四郎主 戦災にて余の作品全部焼失したりとて残念がる 余も残念也 兼て百幅集らば展覧会をやるなどゝ申し居たるも夢となりたりと嘆く 寂しければ何かよこせとの乞いに依り 丁度災害を受けたる時分咲き居たる牡丹をものしたる此の絵有り 依って贈呈す 昭和二十年七月六日 虎識」

牧野虎雄「牡丹」(1945年、キャンバス8号)

「牡丹」は太平洋戦争末期に書かれたものであるが、時代の暗さを感じさせる気配が全くありません。日本画のような平面的な表現のなかに独特の色彩感をふんだんに盛り込んで描かれており、牧野の晩年の作風がにじみ出ているように思われます。

大切にされた丸帯「巖石と波」

牧野虎雄「巌石と波」(制作年不詳 丸帯仕立・絹地) 

川村貞四郎の妻、美和さんの所有であった一本の丸帯は、牧野虎雄に描いて頂いた日本画を丸帯に仕立てものです。帯には「巌となりて 苔のむすまて 乕」と書かれています。波に洗われる岩石の絵が織り込まれたこの帯は、その特異さから非常に珍しい逸品と言えます。

美和さんは、金婚式にこの帯を身につけて出席したと伝えられています。その後、この帯を古橋会に寄付しようという夫の提案に、美和さんは初めは抵抗したようです。貞四郎さんの説得により、帯は当館の所蔵となったと聞かされています。

牧野虎雄の画家生活を含めて収蔵作品の一部を紹介した記事は、以下からご覧ください。

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この記事を書いた人

私たちは、300年以上の歴史がある豪農古橋家の歴史と家訓「家は徳に栄える」を受け継ぐ財団法人です。
私たちは、豪農旧家、中山間地域、歴史や伝統文化など、古めかしくて時代遅れとみなされたものを、現代においても通用する形に磨き上げて、人と人との繋がりが人を支え、人間性に根ざした、与え合う社会の実現に貢献していきます。

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