牧野虎雄の画家生活と多摩美術大学新設運動【懐古館だより11号より】

古橋懐古館は、画家牧野虎雄(1890~1946)の作品20点以上を所蔵していますが、これらは財団法人古橋会初代理事長川村貞四郎(1890~1987)から寄贈されたものです。

本記事は牧野虎雄の画家生活を含めて収蔵作品の一部を紹介します。なお、本記事は古橋義人「大正・昭和の画家 牧野虎雄の作品 第2回」(『古橋懐古館だより 11号』 2022年11月発行)をもとにして編集したものです。

目次

大正時代の牧野虎雄:東京美術学校から帝展審査員まで

牧野虎雄は東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に在学中、黒田清輝、藤島武二の指導を受け、同校の特待生となりました。大正2年(1913)に卒業後は研究科に進み、その後官展に出品、大正11年以後帝国美術院展覧会(帝展)審査員に何度も任命されるようになります。

大正13年当時帝展の中心画家であった彼自身、高間惣七、熊岡美彦等が「槐樹社(かいじゅしゃ)」を結成し機関誌「美術新論」を発行しました。毎年公募展を開催して、帝展とは異なる自由で幅広い画風を通じて当時の画壇に大きな影響を与えました。

牧野虎雄「野尻湖」
大正8年(1919) キャンバス4号

昭和期美術の革新:牧野虎雄と六潮会、旺玄社

昭和5年(1930)には木村荘八、中川紀元、福田平八郎、中村岳陵、山口蓬春ら洋画家・日本画家と「六潮会」を結成し、新しい日本絵画の道を探ることを試みました。

昭和7年槐樹社の解散後、岩井弥一郎、上野山清貢、小林喜代吉、鈴木金平等、旧槐樹社同人が発起人となり、牧野虎雄を盟主とし、その盟友、門下生を結集して「旺玄社」を組織、昭和8年、第1回展を東京府美術館で開催しました。

作家の自由な創作を尊重し、清潔・透明で開かれた運営を通じて、わが国美術界の健全な発展に貢献することを創立理念としていました。

牧野虎雄「けし・あやめ」
昭和8年(1933)頃 キャンバス12号

美術界の腐敗に立ち向かった男:牧野虎雄と帝展改組問題

牧野虎雄の生涯を考える上で昭和10年(1935)の帝展改組問題は重要と思われるので少々触れておきたいです。

明治40年(1907)に文部省美術展覧会(文展)として始まった日本の官設公募美術展は、大正8年(1919年)帝国美術院設立とともに文部省管轄下の帝展となりました。

昭和10年松田文部大臣が、在野の諸美術団体から有力画家を帝展審査員に加え、美術の国家統制を強化しようとして多くの紛糾混乱を生ずる事態になりました(松田改組)。このとき牧野虎雄は、審査員の腐敗を糾弾し、自分の弟子を優先的に入選させる情実審査や金品を受け取って選考に手ごころを加える行為を指摘し、審査員就任を断って帝展への出品をいっさい拒否し、「帝展不出品同盟」を結成しています。

美術の自由を求めて:牧野虎雄と帝国美術学校の分裂事件

同じ頃帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の分裂事件が起こっています。帝国美術学校は、東京美術学校の教育が徐々に自由な発想から遠ざかっていることを危惧した人々が、官立の学校とは異なる校風を求めて設立しました。当初は学生20人前後の私塾的なものであったが、生徒が次第に増え、政府から法人化と専門学校への昇格を命じられました。

しかし、校舎の新設などにより経営難となり、資本金を集めることが出来ず、校長の北昤吉は東横線沿線の上野毛への学校移転を条件に東横電気鉄道から資金援助を得る決断をしました。

この間の経緯について学内から異論がおこり、反対派の教官を解雇したことなどから、昭和10年5月に学生等が授業ボイコットする事態となりました。結局北校長は解任され、北を支持する教員や学生と共に上野毛に新設された多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)に移りました。北昤吉と親交のあった牧野虎雄は、帝国美術学校教授を辞して多摩帝国美術学校の洋画科主任教授となり、美術教育に力を尽くすとともに、学校への財政的支援なども行いました。

帝展改組や多摩帝国美術学校の分離独立に際して牧野虎雄のとった行動は、必ずしも望んだものばかりではなかったようですが、牧野の考えの根底には、官立のアカデミズムから失われようとしていた自由な創作を尊重して芸術の発展に寄与するという基本姿勢があったようです。

牧野虎雄「青柿垂枝」
昭和15年(1940) キャンバス12号

晩年の牧野虎雄:「邦画一如会」と「旺玄社」

昭和15年(1940) 、牧野は中川紀元、小杉放菴、津田青楓、石井柏亭、藤田嗣治、中川一政、木村荘八、鍋井克之、東郷青児らと「邦画一如会」を結成し、近代日本画の発展にも貢献しました。晩年はもっぱら旺玄社で活躍しました。

昭和19年、第12回旺玄社展に「白樺」「山茶花」を出品、これが最後の美術展出品となりました。昭和21年 10月18日、食道がんにより死去、享年56歳です。多磨霊園に葬られました。

牧野虎雄は、美術史的には、戦前の洋画界の異才と評され、日本的な油絵に優れた境地をつくりあげたと言われています。

戦後混乱の中での明るさ:牧野虎雄の「芍薬」

古橋懐古館には芍薬を描いた小品があります。戦後混乱期の暗い世相の中、食道がんとの闘病生活を送っていた人の描いたものとは思えない、明るい色彩にあふれる油絵です。この絵は、キャンバスではなく菓子箱の蓋と思われる杉板に描かれており、当時の物資窮乏も病魔も牧野の作画意欲を削ぐことはできなかったようです。

亡くなる1ヶ月前に書かれた裏書があり、牧野虎雄と川村貞四郎の長年にわたる親しい交遊を偲ぶにふさわしい内容と思われるので最後にこれを紹介して筆を置かせていただきます。

「芍薬」の裏書

昭和二十一年九月十二日 川村大人突然出現す 余病中なれ共 暫く中に一時病魔退散す 乕

牧野虎雄「芍薬」
昭和21年(1946) 18×14cm木板

牧野虎雄と川村貞四郎の交遊を中心に、収蔵作品の一部を紹介した記事は、以下からご覧ください。

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この記事を書いた人

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