まだ電話もメールも自動車も使えなかった大正の「大嘗祭」(前編)

稲武地区が担ってきた「大嘗祭(だいじょうさい)」の繒服(にぎたえ)調進に関して、これまで当サイトでは令和度と平成度の取り組みをご紹介してきました。続いて取り上げるのは、さらに時代をさかのぼった大正の大嘗祭について。当時の詳しい資料が整理されましたので、関係者の奮闘ぶりをこれまでよりも詳細に追っていきます。

目次

愛知県庁から御料繭の調進を依頼される

明治天皇の第三皇子であった明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王が第123代天皇に即位したのは、明治45年/大正元年(1912)7月のことでした。そのため当初の予定では、大正3年(1914)に新天皇の即位に伴う「大嘗祭(だいじょうさい)」を斎行することになっていたのですが、同年4月に明治天皇の皇后であった昭憲(しょうけん)皇太后が崩御したことを受け、大正4年(1915)の11月に延期されました。

そうした経緯を経て、「大嘗祭」斎行のおよそ4ヶ月前にあたる大正4年7月21日、愛知県庁は額田郡岡崎町(現在の岡崎市)の製糸会社「三龍社」に「大嘗祭繒服(にぎたえ)調進」の命令書を伝達するとともに、「稲橋村武節村組合献糸会」(現在の豊田市稲武献糸会)に御料繭の調進を打診。献糸会の会長であった古橋家8代の源六郎道紀(ちのり)は、その電報を受け、ただちに会の役員を招集しました。

この段階で愛知県庁から求められた御料繭の数量は5石。幸いなことに同年は春繭の収繭量が潤沢であったことから、最高品質の原料繭が提供できることを確信したうえで、承諾の旨を電報で返しました。

稲橋村武節村組合献糸会・大嘗祭繒服御料繭調進事務所(愛知県北設楽郡稲橋村武節村組合役場内)

名古屋新聞など当時の報道がいち早く反応

この御料繭の調進がいかに大きな出来事であったかは、当時の報道を見るとよくわかります。中日新聞の前身の一つにあたる「名古屋新聞」は、早くも献糸会が電報を受け取った翌22日の夕刊に「繒服調進の命下る 三龍社と稲橋村武節村組合献糸会の名誉」と題した記事を掲載。献糸会が伊勢神宮の祭祀「神御衣祭(かんみそさい)」に御料糸を調進してきた歴史にも触れたうえで、今回の大嘗祭における会の名誉を高く評価しました。

さらに23日には、東京や大阪など全国各地の新聞にも同様の記事が掲載されました。もっとも「大嘗祭」は、天皇陛下の皇位継承に伴って行われる非常に重要な儀式ですから、ここまで注目されるのも決して不思議なことではないでしょう。いずれにしましても、このような多方面に渡る反響の大きさも影響したのか、献糸会の役員はあらためて村役場に集まり、「この名誉にいかに応えるか」の議論をさらに深めていきました。

北設楽郡の郡長代理が命令書を携えて来訪

献糸会役員による議論は翌日の24日も続けられました。そんな中で11時には、繒服の調進を担う「三龍社」の社員が来訪。今後は双方の連絡を密にすることで意見が一致しました。

次いで正午には、北設楽郡の書記が郡長代理として間もなく到着するという連絡が。献糸会の役員はさっそく村役場の議事堂の清掃に取りかかり、式場を設けたうえで、全員が礼装に身を包みました。そして13時、命令書を携えた書記が県の技師や技手とともに来訪。命令書にはその当時に愛知県知事を務めていた松井茂の署名があり、これをもって正式に御料繭の調進が要請されました。

そして技師からいくつかの指示を受けた後、「三龍社」の社員と技師などが原料繭の保管状態を点検。「殺蛹や乾燥の度合い、それに色艶ともに申し分なし」と太鼓判を押され、「三龍社」の社員はその一部を試験や練習用として持ち帰りました。

村全体の名誉とすることを各会の満場一致で可決

献糸会の役員は、翌日よりさっそくさまざまな準備に取りかかりました。まず7月25日には、調進に関する施設について協議。「三龍社」が織殿を新築することになり、その完成まで村内で御料繭を保管する必要が生じたため、湿気の少ない地域にあった稲橋尋常高等小学校に新たな「奉置所」および「選繭所」を設置する運びとなりました。

御料繭奉置所

次いで27日には、郷社である八幡神社で「奉告祭」を斎行。組合や神社の名誉職、村役場の職員、献糸会の関係者などが集まる中で、古橋会長が命令書を読み上げ、これまでの経過を報告しました。そして稲橋村と武節村、組合でそれぞれに会合を開き、「この御料繭の調進を献糸会だけでなく村全体の名誉とし、誠意をもって完了に努める」とする議案を各会の満場一致で可決しました。

さらに29日には、献糸会の常務委員が打ち合わせのために「三龍社」を訪問。その後は愛知県庁に出頭し、産業課で諸般の指示を仰ぐとともに、松井茂愛知県知事と面会して詳しい説明を行いました。

献糸会委員や奉仕者など約120名の実施者を決定

一方で献糸会は、稲橋村武節村組合の役場内に委員会を設置。事務作業を分担するため、総務部、式典部、営繕部、調製部、警備部、衛生部の6部を設け、各部に委員を割り振りました。

また、春繭の選別を行う際に「選別式祭祀」を執り行うこと、その選繭奉仕者や奉送を担当する奉舁者は組合村青年会員から選定することなどを決定。最終的に前述の6部の委員と奉仕者、奉舁者、それに調進委員や常務委員なども加えた総勢およそ120名態勢となり、まさに地域総出で御料繭調進の取り組みを進めていくことになりました。

そして月をまたいだ8月7日、愛知県庁より再び命令書が到着。御料繭の数量を正式に6石とすること、選別した御料繭は「三龍社」の蚕業講習所に出張している県官吏に引き渡すこと、そして9月5日を納入期日とすることが通達されました。

奉置所と選繭所の清袚式を経て警備を開始

稲橋尋常高等小学校に設置することになっていた「奉置所」と「選繭所」は、ほどなくして完成しました。そして装飾や整頓なども完了したことを受け、仮の奉置所に保管されていた10石の原料繭を搬入。8月15日に「清袚式」を執り行い、当日は主要な成員のほか、村内の在郷軍人や青年会員なども含めた総勢300名以上が集まりました。

御料繭清袚式

そして同日より昼夜の警備を開始。万が一のことを考え、「奉置所」の前庭と後庭に2台の消防ポンプも設置しました。なお、「奉置所」の外庭の警備は軍服を着用した在郷軍人が、中庭と後庭は青年会員がそれぞれに担当。さらに夜間の18時から翌6時までは、警察も加わって厳重な警戒にあたりました。

謹選調製式を行って原料繭から御料繭を選別

次いで8月24日には、原料繭の「謹選調製式」を執り行いました。当日は来賓として愛知県知事代理、「三龍社」社長代理、北設楽郡長、田口警察署長、愛知県農会の代表者、設楽町田口にあった蚕糸取締所第五支所の主事、各町の村長、郡会議員、郡神職会役員、稲橋銀行の頭取、県の土木吏員巡査、新聞通信員などが参列。原料繭の選別や計量を行い、1石ずつに分けて樅(もみ)製の箱に納め、さらにヒノキでつくられた辛櫃(からびつ)に格納しました。

御料繭選別式
御料繭謹選済

そして納入期日の前日にあたる9月4日、いよいよ選別された御料繭が額田郡岡崎町の「三龍社」に奉送されることになりました。振り返ってみると、7月21日に愛知県庁より御料繭の調進を打診されてから、この時点でわずか1ヵ月と10日ほど。電話もメールもない時代に、その短期間で関係各所と何度も連絡を取り合い、「奉置所」の設置や人員の選抜など多岐にわたる準備を終えられたことには、あらためて感嘆させられます(後編に続きます)。

文:藤原均(フリーライター)

【参考文献】

  • 愛知県北設楽郡稲橋村武節村組合献糸会「大嘗祭繒服御料繭調進記録」(古橋家文書・近代132-1) 
  • 古橋茂人『古橋源六郎道紀翁小伝』 1995年 財団法人古橋会
  • 古橋茂人『大嘗祭繒服調進の記』 1990年 財団法人古橋会

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