正義感あふれる類まれな三河男児:古橋会初代理事長 川村貞四郎の歩み(中編)
財団法人古橋会は、第二次世界大戦が終戦した年の翌年にあたる昭和21年(1946)に設立されました。その初代理事長に就任したのは、古橋家7代源六郎義真(よしざね)の三男で八代の道紀(ちのり)の弟である、当時55歳の川村貞四郎。大正時代から昭和前期にかけて警察官僚や山形県知事などを歴任し、公明正大な志を胸に、破天荒ともいえるフロンティア精神と行動力を発揮して、数々の重要な改革を断行してきた人物です。
本稿では、そんな川村の半生を辿りながら、代表的な功績の一つひとつを詳しくご紹介。戦前から戦後にかけての激動の時代を駆け抜けた、正義感あふれる類まれな三河男児の姿に迫ります。
政変などが引き金となって山形への転出が決定
昭和2年(1927)11月に警視庁の保安部長となった川村貞四郎は、公明正大な警察像を打ち立てていくため、厳正な職務執行に取り組みました。しかし今回に限ったことではないですが、「出る杭は打たれる」というのが世の常。昭和4年(1929)には、川村のやり方に反発する一派によって排斥調印が行われるなど、川村の周囲には次第に不穏な空気が立ち込めるようになっていきました。
そんな中、同年7月に立憲民政党の浜口雄幸を首相とする浜口内閣が誕生。川村とは反りの合わなかった人物が警察機関の人事を担う警保局長に就任したことで、にわかに「川村は都落ちになるだろう」との噂が飛び交い始めました。
当時の川村は、警察組織の研究に没頭する一方で、中央大学の講師も務めていました。そこで噂を耳にした川村は、「今さら都落ちは面目ない」との思いから、先手を打って自ら休職を希望。一時的に休息をとって警察研究に没頭し、将来のために備えようとしました。
ところが、ここで事態が急変します。川村は山形への転出を命ぜられ、「今回ばかりは先輩の言うことを聞け」という周囲からの強い説得もあり、不承不承ながらも住み慣れた警視庁を離れることになったのでした。
山形県の内務部長として県政の進展に尽力
昭和4年(1929)7月、家族とともに山形県に転居した川村は、内務部長として山形県庁に初登庁。周囲の真摯な援助に力づけられ、当初の沈みがちであった気持ちが引き立てられると、さまざまな庁内の事務に忙殺されながらも積極的に視察を行い、管内の地勢や産業、人情風俗などを通観したうえで、内務部長としての進むべき道を模索しました。
そうして次第に内務部の仕事に慣れてきた川村は、職務に対する本来の姿勢と熱意を取り戻して日々の業務に邁進。歳入欠陥補填の節約申し合わせ、橋梁と最上堰の起債問題、災害工事費の適正な査定などを通して、県政を円満に進展させていきました。
ところが、そうしているあいだにも、またもや川村のあずかり知らないところで政治的な思惑による策動が進んでいました。その影響を受け、翌年早々には青森県の内務部長との入れ替え転任が決定。昭和5年(1930)1月、わずか6ヶ月の在任期間を終え、いったん帰京したうえで、青森県庁に着任しました。
山形県から青森県の内務部長へと転任し、依願免官として職を退く
山形県庁に続いて、青森県庁でも内務部長を務めることになった川村は、ここでも行政が抱えていた難局を打開するため、さまざまな改革に乗り出しました。その中でもとくに尽力したのは、八戸市にある鮫漁港(八戸港)の埋め立てと陸上設備に関する起債であったといえるでしょう。川村は知事の反対にもかかわらず、債券発行の認可を受けるために全力を尽くしました。内務省の承認を得て、大蔵省への働きかけを行っているタイミングで自身に休職命令が下されるも、最終的に大蔵省の承認が下りるまで、改革の手綱をゆるめることはありませんでした。
一方で川村は、休職命令を受けて辞表を提出。昭和5年(1930)6月に依願免官となりました。後に川村は、この件に触れて、「私を休職の悲運に陥れることになってしまった鮫漁港の起債は、私を男にした取り組みであったと同時に、今も忘れがたい青森県土産になった」と回想しています。ここでも在任期間は、山形時代と同様にわずか6ヶ月。およそ1年間にわたった東北生活を後にし、帰京の途についたのでありました。
山形県知事に就任して、県民の福祉増進に全力を注ぐ
帰京後、川村はひっそりとした恩給生活に入り、家族との団らんの時間を手に入れました。家庭の人として、75歳の母をいたわり、これまでに多くの苦労をかけた妻に寄り添い、幼い子どもたちの将来に思いを巡らしました。その一方で、政敵に対しては新聞雑誌を通じて、その違法行為などを糾弾。青森県の県会議員選挙で監視員を務めたり、都内に弱者救済の社会相談所を設立するなど、内外ともに充実した日々を送りました。
そんな中、昭和6年(1931)9月の満州事変を経て、12月には時の内閣である若槻内閣が総辞職し、犬養毅を首相とする犬養内閣が発足。山形県で再任されることをひそかに希望していた川村は、恩師の心遣いや山形県民による運動などが功を奏し、今度は山形県知事として、再び思い出深い山形の地を踏むことになりました。山形駅に到着した川村を待っていたのは、たくさんの地域の人たち。盛大な歓迎を受け、川村は感激の極みであったといいます。
着任の挨拶などを終えた川村は、紛糾していた県議会の閉幕、産業道路の促進などを通して、いち早く今後に向けた県政の方向性を示唆。広告主義が蔓延していた医療界においては、「宣伝より実行へ」をスローガンとし、広く県民に訴えかけました。
県知事として川村がもっとも重視したのは、県民の福祉増進でした。そして政策の実現に向けては、まず新聞に発表して県民に具体策を提示。一般の理解と批判を仰ぎ、あくまでも県民の要望に沿ったかたちでの施策に取り組んでいきました。この時期における代表的な施策は、副業の奨励と研究所の設置、果樹の適地適木栽培や淡水魚の増殖の奨励、赤十字保養所の設置、児童保健所の新設、産業振興に向けた土木事業、寒地農村住宅の建設など。苦境にあえぐ山村地域の救済、農耕地域の生活向上などを第一の目標にするとともに、一方では地域の未来を考え、橋の架設や飛行場の新設などに代表される交通インフラの整備にも力を入れていきました。
ところが昭和7年(1932)5月15日、後に軍部の台頭へとつながっていく五・一五事件が発生。首相官邸を襲撃した陸海軍の青年将校たちによって、犬養首相が殺害され、党派を超えた挙国一致内閣が発足しました。この政変は、一時は鳴りを潜めていた策謀が再び活性化するなど、川村にとって強い向かい風となりました。各方面からの留任運動、知人からの応援、産業組合大会などにおける留任決議など、川村を守ろうとする動きが活性化したものの、その力も及ばず、同年6月には再び休職の憂き目に合うことになったのでした。
しかし、このときに起こった留任運動などは、川村がいかに山形県で支持されていたのかを、如実に物語っているといえるでしょう。これは川村が、あくまでも県民本位の立場に立って、一点の私心もなく、骨身を惜しまずに県政に尽くしてきたからこそ。山形県を去るために乗車した列車には、見送りの人たちが大挙して乗り込み、それぞれの停車駅でも多くの賛同者に囲まれるなど、川村はたくさんの人たちから盛大に見送られながら、晴れ晴れとした気持ちで帰路についたといいます。
実業家に転身した生活の中で終戦を迎える
帰京した川村は、自宅を新築した後、弁護士として活動し始めました。さらに昭和8年(1933)年には、知人から相談を受け、レアメタルの一種であるモリブデン鉱山の開発に参画。次いで昭和13年(1938)より、東洋インキ製造株式会社の社長に就任すると、営業面や製造面で数々の画期的な措置を講じるとともに、福利厚生面でもさまざまな待遇改善に取り組んでいきました。
ところが昭和14年(1939)、第二次世界大戦が勃発。昭和16年(1941)には日本が真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まりました。そんな中、川村は昭和18年(1943)に「テルミナリス」を原料としたウィスキーの製造を行う大東亜醸造株式会社を設立。自ら社長に就任しました。
しかしこの時期は、日を追うごとに戦局が悪化の一途を辿っていく一方でした。昭和20年(1945)3月の東京大空襲では、ついに自宅を焼失。知人宅などを転々とした後、同年8月15日の終戦を経て、戦後の混乱を避けるために、古橋家の故郷である稲武への疎開を決意したのでした(後編に続きます)。
文:藤原均(フリーライター)
✎参考文献
川村貞四郎『我が半生』 1968年 財団法人古橋会
川村貞四郎『明治・大正政治史料 官界の表裏』 1974年 雄山閣
川村貞四郎著・古橋茂人編集『三河男児 川村貞四郎Ⅲ 闘魂の記』 2003年 株式会社雄山閣
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