榊原文翠「大嘗祭図」【資料紹介】

大嘗祭(だいじょうさい)とは、天皇が御即位されてから最初に行う新嘗祭(にいなめさい)のことで、特別に「大嘗祭」と呼び、皇位継承に際して行う一世一代の重要な儀式です。

「大嘗祭図」は大嘗宮(だいじょうきゅう)と天皇の行幸を描いたものです。本図は、前に祭祀の場となる大嘗宮の正殿、悠紀殿(ゆきでん)(東側)と主基殿(すきでん)(西側)(※どちらも天皇が神饌(しんせん)(※この場合は神の食事)を奉る神殿)、奥に廻立殿(かいりゅうでん)(※天皇が潔斎し祭服に着替える場所)と紫宸殿(ししんでん)(※天皇の居住所)があり、天皇が白絹の祭服(※斎服)・幞頭(ぼくとう)(※頭巾)に着替えて悠紀殿に渡御する姿を描いたものです。

榊原文翠(さかきばら ぶんすい)(1824-1909)は、江戸の旗本の家に生まれ、はじめ谷文晁に師事し、後に国学・和歌を学び、京都和学所に出仕。また土佐派を修め、維新後は京都美術学校などで教職に就き、やまと絵画派の主力となり活躍しました。

榊原文翠「大嘗祭図」
絹本着色 明治37年(1904)

大嘗祭には、新穀とともに重要なお供え物として、麁服(あらたえ)という麻織物と、繒服(にぎたえ)という絹織物があります。繒服は古くから三河の国から調進されたと「延喜式」などに記載されています。

稲武地区は大嘗祭と深く関わりがあり、大正の大嘗祭では、稲橋村武節村組合献糸会より御料繭を調製し、岡崎の製糸会社三龍社が繒服を調進しました。平成度の大嘗祭では、当時の稲武町役場が町全体を挙げて対応し、繒服を調進しました。 令和度の大嘗祭では、一般財団法人古橋会が中心となり、稲武地域大嘗祭繒服調進特別委員会を組織し、繒服を調進しました。

令和5年の企画展示「にぎたえの里ー稲武でお花見を楽しもう」では、繒服献納に使用した御料繭・生糸(平成2年予備分)、献納品と同様に作られた昭和・平成度・令和度の繒服の予備分を展示したとともに、この大嘗祭図も展示しました。企画展の詳細は以下の記事をご覧ください。

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