豊臣秀吉「千成瓢箪」【出展資料紹介】

千成瓢箪は、豊臣秀吉(1536~1598)が馬印として使用したものと伝えられています。

その由来は、美濃の稲葉山城攻略において、軍師竹中半兵衛の進言により裏門から奇襲攻撃を行い、瓢箪を棒の先に掲げて振り、これを合図に攻撃を開始したことにあります。この作戦は成功し、織田信長から秀吉は馬印を許されました。 以後、秀吉は「一勝毎に一を加え以て千と成さん」と、千成瓢箪を愛用したとされています。 

この瓢箪は、秀吉が亡くなった後も大坂城のシンボルとしてまつられていたが、大坂夏の陣で落城する際、秀頼の小姓が千成瓢箪の一握りを城外に投げ、徳川方の武将に拾われたと伝えられています。後に明治期の収集家小磯前雪窓を経て、古橋家7代義真(よしざね)が譲り受けました。

豊臣秀吉は花見が好きで、慶長3年(1598)3月に醍醐寺の三宝院で、豊臣秀吉が催した花見の宴は、歴史的に有名です。秀吉は、この日のために近江など各地から集めた700本の桜を醍醐寺に植樹し、建物や庭園を造りました。

秀吉は、息子秀頼や正室北政所(きたのまんどころ)(よど)殿をはじめとする側室、女房衆など、1300名以上の女性を招いて、日本全国から献上された銘酒・銘菓などを振舞い、参加した女性全員に2回の衣装替えを命じたと言われています。それから5ヵ月後に秀吉は病死し、人生最後のお花見になりました。醍醐の花見は「豊太閤花見行列」として再現され、行事として今も引き継がれています。

令和5年の企画展示「にぎたえの里ー稲武でお花見を楽しもう」では、秀吉の千成瓢箪を出展しました。企画展の詳細は以下の記事をご覧ください。

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

私たちは、300年以上の歴史がある豪農古橋家の歴史と家訓「家は徳に栄える」を受け継ぐ財団法人です。
私たちは、豪農旧家、中山間地域、歴史や伝統文化など、古めかしくて時代遅れとみなされたものを、現代においても通用する形に磨き上げて、人と人との繋がりが人を支え、人間性に根ざした、与え合う社会の実現に貢献していきます。

目次